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CMF地球運動提唱者 木原秀成

エトセトラ


 

第二次世界大戦において、最も激しい戦闘が繰り広げられた南洋の小さな島パラオ・ペリリュー島で、日本将兵たちは米軍と勇敢に戦ったのです。
一九四四年(昭和十九年)九月十五日、アメリカ軍はパラオ・ペリリュー島の西の浜 、俗に言うオレンジビーチに兵を進めました。
上陸から三日で終わらせる予定だった戦闘は、日本軍守備隊の凄まじい抵抗にあい二ヶ月以上にも及びました。
この間の死者は米軍九八〇〇人以上、日本軍が一万三千人以上。
祖国の存亡をかけ、若者たちは国の命により、 学舎に別れ を告げ愛しい人への思いを断ち切って戦場に飛び立って行った英霊たちは、 今もってこのペリリュー島に残されたまま、遺骨は発掘さえもしてもらえていないのです。
四〇〇メートルの戦車壕に埋まった遺骨は半世紀の歳月がどのように変えているのか。 その他にも島の至るところに、戦争の遺跡が当時のまま残されているのです。

中川州男大佐 水戸歩兵第二聯隊
その最後を迎えた時、中川大佐そして第十四師団から派遣されていた村井権治郎少将、飯田義栄中佐の三人は、 それぞれ古式に則って割腹自決。 三人のあっぱれな最期に続けとばかり、根本甲子郎大尉以下最後の決死隊が組織された時、  残る兵員は傷だらけの五十五名のみ。
軍旗も機密書類も焼却したことを意味する最後の電文「サクラ・サクラ」が、 パラオ本部に届いたのは、十一月二十四日の十六時。このたった六文字の電文こそ、 ペリリュー島守備隊全員が桜花のごとく散ったことを意味するもので、一万人有余名 の兵の死をもって謳いあげた世界で最も短かく簡潔な詩と言われている。  
HP「ペリリュー島玉砕」より

パラオ

碑文


英霊たちの遺骨収集とご供養
元内閣総理大臣であった東条英機さんのお孫さんに当たるNPO法人環境保全機構、理事長東條由布子さんは、 英霊たちのご遺骨収集に多年努力されておられます。その東條さんがお声をかけて下さり、主旨に賛同し、 木原秀成先生はご遺骨収集に参加されました。

また今年は、日本・パラオ・アメリカの三ヵ国合同で、第二次世界大戦とその以後従軍してきた 日本とアメリカの兵士を称えるため、ペリリュー戦が始まった九月十五日が、六〇周年に当たるため、 パラオ政府主催で合同慰霊祭・記念式典が催されるので、併せて参加をすることにしました。
パラオは建国されてまだ十年の若い国。当時日本軍はペリリュー島民を安全な島に移住させた後に玉砕。 日本人によって統治されていた時代もありましたが、一九九四年には独立国家となりました。 パラオと日本は多くの歴史と文化で結ばれており、その友情は戦前から変わっていないということです。 九月十二日~十六日までの四泊五日ペリリュー島への出発は名古屋空港から始まるのです。

パラオペリリュー島へ
九月十二日、グアム経由でパラオに二十一時に到着致しました。その日はホテルへ直行。
翌日メインのペリリュー島は、朝から雨。といってもスコールのような、まさにお浄めの雨。八時四十五分ホテルを出発と同時に、嘘のように晴れ渡る中、コロール港から漁船にて一路ペリリュー島へ。
途中海面にゼロ戦が水没している所で、船上でご供養を済ませ、一時間十五分後到着。
ここで先発隊の東條由布子さん他発掘関係の方の出迎えを受けました。
この方々が寝泊まりしているロッジに入るやいなやスコールがまたもや、一行の動きを察しているかの如く、説明を受けている間降り続き、不思議なことに島内見学に出発と同時に青空が。
一週間前から発掘作業に来ていたボランティアの方の説明によると、日本政府との間で何かあったらしく、昨日突然、発掘作業禁止の指令がパラオ政府から出たとのこと。
遺骨を発掘することも持ち帰ることも禁止となった一行に一瞬憤りと沈痛の空気が流れました。木原先生は気持を切り替えられて、ならば英霊に精一杯のご供養をと。


日本軍帰還者
司令部が玉砕命令を出し日本軍がペリリュー島から撤退したことは知っていたものの、日本が負けたとは夢にも思わず、三十四名の日本兵がペリリュー島に隠れ家を作って住んでいました。終戦の二年後、どうもこの島には未だ日本兵がいるとの情報があり、グアムの戦犯収容所にて捕虜となっていた日本将校を派遣し空から日本が既に降伏したことを知らせました。当初は警戒していましたが、日本の現状を知らされ、また日本に残る家族からの手紙などの効果により、全員無事投降したのです。


三ヵ国合同慰霊祭・記念式典
九月十五日八時から、日本・パラオ・米国の三ヵ国によるペリリューの戦いの合同慰霊祭と記念式典が、国立競技場にて開催されました。
地元の子供達が三ヵ国の国旗をもって行進をするのですが、一番先頭の車イスの女の子が日の丸の旗を懸命にふっている姿は人々の目を見張りました。日本兵によってパラオは守られたという強い想いを感じました。
国旗掲揚に国歌斉唱と最近日本では重きを置かなくなった儀式も、大戦の爪痕の地においては、国の旗「日の丸」や国の歌「君が代」が心に響き、日本国・日本人として胸を張って堂々と参加させて頂きました。パラオ大統領をはじめ、米国公使の挨拶の後、日本の諏訪公使の挨拶は、激戦の前に島民を移動させ勇敢に戦った我が祖先の英霊たちに捧げるとても立派なものでした。
その後、関係者の一部がペリリュー島に渡り、「ペリリュー第二次世界大戦記念ミュージアム」にて、記念式典をし、終了致しました。今はダイバーたちのあこがれのパラオですが、悲しい程青く澄みきった空と珊瑚礁に囲まれた海に、わずか六十年程前に両国約二万人以上の人々が犠牲になったとは到底想像もつかないほどの景観でした。


夕べの集い
東京、名古屋から約六〇名近くの方々と夕べの集いが行われました。中にはペリリュー戦前日まで島にいて、書類を運ぶため飛び立った人(河辺勇さん)とペリリュー島の近くアンガウル島で戦った人(倉田洋二さん)がいらっしゃいました。
二度とこのような悲劇を繰り返してはならないと痛切に感じると共に、未だペリリュー島に眠っている英霊たちの安楽成仏を願わずにはおれませんでした。青く澄みきったパラオ島、ペリリュー島の空や海の美しさと、祖国日本の土を踏めないでいる英霊たちを連れて帰る想いで、十六日深夜三時パラオから、空路帰路につきました。
楠葉正子