鼎の法道 神職憲法 第十七条
第十七条
仏典は印度の神道、儒文は中国の神道だ。これらは太神の託宣であり、神代のことを知ることができる。共に物を安んじ、道理をくわしくして、神文の幽玄を述べるものである。従って兼学しなければならない。
第十七条で、世界の学問を学べと書かれた太子は、公式に、漢字を日本の文字と決めました。細かく言えば、隋と呉の文字も含んでいました。
そもそも文字の発祥は、四千年以上昔の、シュメール・エジプト・インダスの古代文明からと言われますが、中国の文字の始まりは紀元前十五世紀、殷王朝の頃だったそうです。甲骨文字が基礎になっているのですが、筆で書くことによって完成しました。
日本にも、独自の文字として神代文字がありました。『秀真文字』、「アヒルクサ文字」「イズモ文字」「トヨクニ文字」とも言われるものです。
この神代文字は、まるでみみずが這ったような形でした。洗練された漢字の美麗さとは比べものになりません。この文字が漢字の基礎となったとか、言うならば神代文字は漢字の草書体であったという説もありますが私はそうではないと思います。この文字は、太子の時代までは使われていたようです。
さて、時代は遡って聖徳太子の時代より約二百年前のことですが、第十五代応神天皇は、朝鮮半島にあった百済という国に対し、「朝貢せぬとはおかしいぞ、物の代わりに学者を派遣して貰いたい」と、申し入れました。
そして渡来したのが王仁博士です。後に帰化したこの方の話は、皆さまも御存じでしょう。このとき博士は、論語十巻と真草千字文一巻を献上したと言います。これらは読み物としては日本の有識階級にかなり広く行き渡っていきましたが、これはいわば外国語のままでした。
約二百年の後、この漢字を日本の文字として正式に決め、普及させたのが聖徳太子だつたのです。太子は、一万三千字の公用を決めて、漢字の右側に日本読み、左側に韓読みのルビをつけましたからたいへん便利でした。中でも特に喜んだのは百済から来た文化人たちです。故国を追われたり逃れたりして、日本に帰化する覚悟で渡って来て、朝廷で大切な仕事をしていた人々は大勢いました。
そして、この頃からぼつぼつ、片仮名文字も工夫されたと思われます。例えば『イ』は「似」の片側から、などと考え出されてゆきます。
後世、カタカナを完成させた人は、学者・宰相として「弓削道鏡の事件」を解決した吉備真備(きびのまきび 岡山県吉備町・八掛町の人)でした。
大仏建立の聖武天皇の皇女・安倍内親王(後に孝謙・称徳天皇として二度皇位についた)の学問の師となったとき、漢字の読み方をより分かりやすくするためにカタカナをまとめ上げたそうですが、もちろん内親王のためだけでなく、日本の文化を念頭に作業をされたのです。
今やカタカナ文字は、なくてはならないものとして活躍していますが、文字をこれほど多彩に使い分ける民族は他に例を見ないと言い切れましょう。
太子が第十七条で、世界の哲学を学ぶのだと示されたことの実現の手だてとして、こうした文字の整備という細かな配慮があったのでした。漢字にふりがなをつけるということは実に分かりやすくて、日本の独特の文明ですが、歴史を遡ればそこには聖徳太子がおられたのです。
ワープロに頼って漢字を忘れがちの現代。文字は人柄を表します。字を書くことは心がけて大事にしたいものです。
吉備真備
奈良時代の政治家・学者。唐に二十年留学した後帰国。築城や反乱の鎮定などで功をあげ、右大臣にまで出世した。六九三~七七五年。