第十七条
仏道は伏羲(ふっき)、老子、孔子のことを記し、老孔は天竺西方のことを言っている。儒は少しも仏理に反しない。仏道は日月星の理を説いて、神は皇天に代わって教えを述べられた。しからば、仏も神道ではないか。仏の五心は神の五心、儒の五常であり、仏の五大は神の五行、儒の五行である。仏と神と儒とは元来一道である。嫌わないで兼学すべきである。兼学すれば、理を尽くすことができる。
太子の憲法の八十五条目でした。
条文の中に出てくる「辰旦」または「震旦」とはインドの言葉で中国を指します。そして、日本でも「辰旦」と呼びました。その理由は、中国が政変によって国名をたびたび変えたからのようです。
孔子がインドの釈迦の教えを高く高く評価しておられますね。釈迦もまた、孔子を讃えました。
世に言われる世界の三聖人のうちの二人、釈迦(紀元前五六三年御誕生。八十歳で没)と孔子(紀元前五五一年御誕生。七十三歳で没)。三聖人のもう一人は申すまでもなくキリスト(没年は三十三歳)です。
太子の時代にキリスト教の分派である景教が入って来ました が、まったく取り上げられなかつたのは、アジア人の宗教ではなかったことと、日本人の八百万の神信仰に対して、キリスト 教はユダヤ教を原点としていますが、唯一絶対神を説いたもの ですから、人々に馴染まないと考えられたのかもしれません。
しかし「仏像」は、この「景教」から生まれたそうです。遡 ってみると、ギリシャ人は聖人像を多く作りました。それが中 近東に渡って、インドのガンダーラ美術として仏像が誕生。更 にめぐりめぐって日本に来たので、現存する初期の頃の仏像は、外国人らしいお顔だちをしています。
さて、この三聖人の活躍した時代に共通点を見つけた方がいます。前述の原田常治先生です。原田先生は、三千五百年も遡り、地球の温度を調べ、地球の気候の寒暖が人間の心と歴史に大きく影響するものだと述べられています。
例えば、中国大陸の北でモンゴル族が勢力を伸ばし、チンギス・ハンが大陸国家という巨大な版図を広げ始めたのが西暦一二〇六年。後に「元」という国が成立します。これは、地球が寒冷期のさなかでした。
そして二百年続いた寒冷の時代が終わると、南の人々が立ち上がってモンゴル族の独裁政治を駆逐し、「朱元璋」を太祖として「明」という国を建てました。
つまり、寒冷な時代には北の民族が、温暖な時代には南の人々が勢力を拡大したというわけです。生まれた土地と地球全体の気候の合致の例と言えましょうか。
そこで、三聖人が生まれ人々を導く法を説いた時代を見てみると、釈迦や孔子の時代は大寒冷期、キリストの時代も大寒冷期にあたっていて、大勢の人々が食べる物がなく寒さに震えているような時代でした。社会全体も音立てて軋むほど揺れていたと思われます。
そこで先ず釈迦は、衆生済度(みんなをたすける)のために諦観(悟って限度を識る)を主体として学問を述べ、自分を救うのは自分であると教えられました。
孔子と釈迦は十二歳違いですが、釈迦の活動は若くして始まっていたので、孔子は充分にその哲学を勉強されたということです。釈迦もまた、孔子の活動に注目していました。
一方、キリストはその御生涯を人々のために捧げ、迫害されたユダヤ人の尊厳と人間愛を叫びつづけ、ローマ帝国の王のために磔(はりつけ)の刑を受けて天界に昇られたのですが、あとは皆様よく御存じの通りです。
この原田学説に納得してしまうのは、地上に物質が豊かな暖期と、稔りの悪い寒冷期とでは人間の心のあり方に違いがあるのは当然であろうと思うからです。寒冷期なればこそ宗教が人を救う役目を果たしたのでしょう。
ちなみに徳川二百八十年は寒冷期で、農民一揆は千六百件も起き、悲惨な歴史を刻んでいます。やがて明治の志士たちが南から東へ向かって攻め上がり、明治政府の誕生となりましたが、その十五年ほど前から地球は温暖期となっていたそうです。
そして現在まで続くのですが、物が豊かな時代の人間の利己主義も、やがて寒冷期となったときに情勢は厳しい方向へ変わってゆくのでしょう。石油資源もあと百年くらいという数字が出ていますが……。
さて、千四百年前の勅語ともいうべき太子憲法。誤りなくお伝えするつもりでも解釈に間違いがあるかもしれません。
しかし、どのように読んで考えてくださったかに私は期待しております。期待するなんて、思い上がった言い方ですが、聖徳太子という偉大なお方を、この本を通じてお話しできたことをありがたく思っております。
※仏の五心とは不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒。神の五心は神(仁)、心(智)、理(義)、気(礼)、境(信)。儒の五常は仁、義、礼、智、信。仏の五大は智、水、火、風、空。神の五行は魂、神、魄、霊、精。儒の五行は木、火、土、金、水。
ユダヤ教
ユダヤ人が信仰する一神教。ノアの箱船などが記された旧約聖書を聖典とする。
元
大陸に勢力を広げたモンゴルが、チンギス・八ンの孫、フビライの時代に都を大都(北京)に移して国名を元とした。朝鮮半島の高麗を服属させた元は、鎌倉時代に二度にわたって日本ヘ来襲した。一三六八年に明によって滅ぼされる。
明
朱元璋がモンゴル民族を北へ追い、一三六八年に洪武帝として即位して建国。日本の室町幕府は正式に国交を開いて貿易を行った。一六四四年、清が中国を統一したことにより滅んだ。