[文化づくり]国際文化交流の推進と援助

CMF対談


  

笑いあり・涙あり・感動あり……と。各界の著名人・異色人・話題人と対談を続けている木原秀成が、この度は、テレビでもお馴染みの料理の鉄人 中村孝明先生を超多忙のスケジュールを調整していただいて、東京有明の本店にお伺いし、日本文化の象徴である〝日本料理〟と〝新しい創作料理〟にチャレンジされている心境・現況などを対談していただきました。


料理の世界に入られたきっかけは?
中村
初めてお話ししますが、両親が離婚し、当時貧しくて、ある日のこと子供心に板前さんがかっこ良く映り、美味しいものが食べられるというそれだけで、調理師会の会長という偉い人に面接していただいて、長崎県雲仙の宮崎旅館さんにお世話になるんです。それからが大変でした。

木原
全然想い描いてた世界と違ったのですか?

中村
よその庭は良く見えるっていうじゃないですか。大変な世界で、一週間目で夜逃げしようかと思いました。

木原
一週間くらいでですか?

中村
朝早くから夜遅くまで、寝る時間も3・4時間くらい、そして殴られたり、軍隊と一緒で、僕らの頃はそういう感じでした。でも僕が夜逃げをしなかった理由は、美味しいものがいつでもつまみ食いできる、それが一番大きな理由でしたね。僕は昔から「つまみ食い」の天才で、老舗旅館ですので、300人前とか作るのですが、夜の八時頃になったら、お客様はもう今からは入らないはずと・・・ 勘定だけはしっかりしていましたから・・・ 今でもそうなんですが、料理人は、作ることより食べることが好きじゃないと、良い料理人になれないんです。

木原
料理の鉄人が料理の世界に入るキッカケがそんなところにあったとは、意外ですね。(笑)


料理界の師弟関係
木原
師弟関係というのは今もそれなりに残ってるんですか。

中村
それは根強く残っています。基本的には親父は親父として一生続きます。

木原
今は昔と全然違うという話を聞いたことがありますが。

中村
それはもう、全然違うと思います。僕はよく『鍛錬』というんですが、己を鍛えてた期間が長かった人ほど、上に立ったときに己のスタンスといいますか、自分の世界が開けてきますが、己を鍛えていなかったら、やっぱり人にもなかなか言えないと思うんです。

木原
最近は胆識といいますか、腹の据わった人が少なくなって、即時的・即物的・即興的な部分だけを求めていく人が多いですよね。

中村
そうですね。今はもう時間が待ってくれない。 追廻が2年で、修練・盛り付け2年、今度は習ったことを訓練するこれが3年、それでもう7年です。そこから4年くらい鍛錬の時代に入り、今度は、熟練工になるわけですが、そこまでに15年。20歳で入っても35才。その頃から調理師が好きになり、一人前になるまで最低でも17・18年かかるんです。ところがそれからが一番辛いんです。今度は誰も教えてくれませんし、ここからが本格的な修行なんです。

木原
我々の世界でも師の怖さというのはあったんですが、今の若い人達にはなかなか通じないですね。料理の世界は日本の精神土壌みたいなものがやっぱり残っているんですね。

中村
僕らの頃は、厳しくて炊き方一つも教えてもらえない。昔の先輩は、気難しい人ばかりでしたから、その頃のことが嫌で、僕はちゃんと教えています。師弟関係は大事にしながら、教えるべきは教えるという時代に変化していると思います。また、これからは自分の技術も後輩に継承していくのが務めだと思うんです。


文明から見た日本料理の魅力と価値
木原
話は変わりますが、飽食の時代で、世界の料理が食べられますが、外国に行きますと、どさっと出てきますが、我々とはその感覚が違うように思いますが。

中村
僕もフランスにも行きますが、一週間フランスにいますと嫌になります。同じフレンチでも全然味が違うんです。日本のフレンチはやっぱり日本人に合わせたフレンチですね。

木原
そうですね。日本人はナイズ化するのは得意ですから。欧米では大体において大雑把で大味で、食べればいいと言うか、その点、日本料理は味や盛り付けにきめ細かい、そう感じるのですが。

中村
やはり料理には、心や想いが影響します。例えば女房と喧嘩した後などは絶対美味しくないんです。作るときは楽しく丁寧にやさしく作るんですね。一枚の皿の中に中村孝明の想いがどれだけ凝縮して入るかなと。最初に出す料理は『ちょっと薄味で』、中間で『あっ美味しいな』、最後には『丁度良かったかな』、そういうのをABCと考えながら作ってるんです。薄いものから順々に食べて欲しいなと自分なりに気配りを考えているんです。 料理の世界には、全く国境が無いと思っていますが、僕は日本料理が一番と思います。

木原
やはりそうですか。日本料理の醍醐味というのは、素材を『いかに生かすか』というところにあるような気がしますが。

中村
以前NHKの『北海道まるかじり』という番組で、北海道に行った時、農家の方の努力をつくづく痛感しました。今の日本人はこういうとこを忘れてるんだなって。 その時の料理は、その人参の味を殺しては作った人に申し訳ないと、二時間くらい蒸し焼きにし、オーブンで焼いて切ってお塩だけで作ったことがあります。

木原
そういうものが日本料理には、もともと流れているんですよね。でも最近はアレンジしたのが多くなったような気がしますが。

中村
それを先生に言われると、ちょっと辛いところもありますが。今、先生のお話を聞いて勉強になったんですけど、日本の食文化というのは、例えば水。 水というのは上から下に流れます。人間の命を育み、たくさんの恩恵を受けているわけです。その水を上のほうに逆に押し上げようとすると、いつまでもそういうことは続かない。 料理人として水の流れがわかったとき、初めてまあまあの料理が出来るのではないかと思います。

木原
西の柱は西に生えた木を使え、東の柱は東に生えた木を使えということを聞いたことがあります。テレビで『料理の 鉄人』を見たとき、桜吹雪を最後に使われたことがあるのですが、そういう粋なやさしさとか、素材そのものを生かす先生を見て「凄い」と。先生の料理の原点はどこにあるのか一度機会があったらお聞きしたかったのです。

中村
自然体でなかなかできないんですね。『料理の鉄人』に出て自分の思った料理を作ろう、とあの番組が一つのきっかけになって独立したんです。 良いこともあったし、反省することもあったですね。そういう意味では、世の中のことを教えてくれた番組でした。

木原
なるほどね。独立の機会がそんなところにあったんですね。


今も大切にされていることは
木原
先生の原点といいますか、今も大切にされていることは?

中村
僕の原点はおふくろの味ですよ。僕は、お母さんがいなかったら、多分ろくな者になっていなかったですね。雲仙から追放されて、大阪にいるお母さんに会いに行った時、こっぴどく怒られまして、「あんたなんか生んだ覚えはない。私の子供じゃない。」これは、めちゃくちゃに迷惑をかけているんだなと思って、それで初めて心を入れ替えたわけです。眼からうろこ状態でした。それからですね、〝神戸のオリエンタル ホテル〟とか〝なだ万〟とかで、どんな辛い修行でもやるようになって、朝も4時5時頃から市場に行って「魚ってこういうふうにして見分けるんだ」とか。そこから人の倍働きました。

木原
そうだったんですか。最近親子関係は難しくなってきていますが、ぐれる子もいるし、また立ち直ろうとする子もいるじゃないですか。 私は『運命創造学』というのを確立したんですが、研究すればするほど、親孝行な人ほど成功し幸福になっているんです。自分の幸せよりもおふくろのためとか、親がどうであれ、親孝行が絶対必要なんです。

中村
先生だからお話ししますけどね。(笑)今までどんな雑誌でも喋ったことがない、だからここはちゃんと書いてくださいね。
僕が25才の時に母親が亡くなったんですが、大阪に出てきたのは18か19で、お母さんに会って、一緒に暮らすようになったんです。ある日、「おなか触って」と言われて触わったら、しこりが3つも4つもあって、これやばいなと。病院嫌いの母親で、親戚のおばちゃんにやっと病院に連れて行ってもらって。そしたら「息子さんちょっと」と、先生から呼ばれ「もうだめだな」と思ったんです。で、すぐに先生に尋ねたら「短くて三ヶ月、長くて一年」と言われました。
もうその時、みるみる真っ青になった。「お母さんには言わないでください」と先生が言うわけです。腸の癒着らしいよと言って笑ってごまかしたかな。まあ、その時の悲しさときたら…。(沈黙)

「癌」の治療薬の抗がん剤とかは保険が効かないんですね。 一年間入院したらどのくらいお金がかかるとか、24才の僕は知らなかったんです。その時ほど、お金がないと、どうにもならないということを思い知らされました。
治療費が払えない、人には迷惑がかけられない、それを民生委員にお願いして、葬式もお願いして。今思えば民生委員に相談に行く時の勇気は、本当に口では言い表わせないほど辛かったですね。とにかくお金を稼がなければ、負けては駄目だなと。その時真剣に思ったんです。おふくろが亡くなった時、雨が降っていて、あの時に、一生分ぐらいの涙は流したかな。

木原
私も高校3年の時に家が倒産しましてね、大学にも行けない、なにせ無一文ですから。その後社会人になって昭和60年11月にある会社の社長を引き受けたばかりに、今度は自分が無一文になって、子供に仕送りも出来なかったんです。 私も他人に「お願いします」と何度も頭を下げた経験がありますから、言葉で言え、なんて言われても言えないんですよね。

中村
言えないんですよ。

木原
しかも翌年の1月21日に親父が死んだんですよ。その葬式に帰るお金がない、なんとかかき集めて帰りましたけど、葬式代も出せない。男の悔しさというのか、情けなさというのか、その時の涙は、なんでこんな時に死んだのかという涙でした。(沈黙)

中村
人生薄情ですね。

木原
非情、薄情ですよ。私が40才の時でした。 私も人生の中でそういう経験があるから、なんとか今まで気力でやれてこれたと思います。

中村
先生もやっぱりそういう経験がおありなんですね。 俺は親父の葬式は行かなかったんです。「俺を捨てて行った人間だから、どうくたばろうとあんたの勝手や」くらいのことしか思っていなかった。で、今もう60近い。最近になって思うんですが、『俺は生きているのではなく、生かされているんだな』と、また「一期一味」を大切にしているんですが、この料理は一回しかできないから、「命こめ、真心こめ、作らせていただく」という意識になったんです。そんなことから、長崎にお墓をもう一回作りかえようと思った時、「親父も死んだんだから、もういいか、おふくろと一緒に墓に入れてやろう」という気持ちになったんです。

木原
振り返ってみますと、我々のころは本当に貧乏でしたが、人として大事な事、愛情などは逆の試練から育んだ感がします。

中村
話は元に戻りますが、僕は世界一の料理人は、母親だと思っています。 テレビでもよく言いますが、お母さんが炊いた釜炊きのご飯は、どんな炊飯器で炊こうと、お母さんの薪で炊いたご飯には勝てないわけです。僕はたぶん死ぬまでおふくろは越えれない。そう思っています。

木原
出張で旅が続くと、おふくろのみそ汁が食べたいなと、思う時がありますが、それは愛情の深さなんでしょうね。

中村
この間テレビで、「究極の何を食べたい」という番組があったんです。 僕は二つ返事で言いました。「お母さんが炊いた釜戸のご飯と、お母さんが作った豆腐とねぎのみそ汁」そして、「お母さんが焼いた玉子焼き」と言いました。お母さんが愛情込めて作った料理には、絶対勝てない、と僕は思いますけど。

木原
そういう点が、先生の料理のやさしさとか、儚さにつながっているんですね。

中村
僕はやっぱり、どんな女性に恋しても、恋心の原点は母親なんだよね。それ以外に何もなし。

木原
『料理の鉄人』で勝ち続けられたのは、素材を生かし、お母さんに対するやさしさや儚さが、料理の中に滲みでていたんですね。


新しい創作料理にかける今後の展望・構想は
木原
最後に先生がお考えになっている新しい創作料理のビジョンというか、夢というか、日本料理をベースにしながら、中村孝明のオンリーワンはどの方向に行くんでしょうか。

中村
これ一番訊いて欲しかったんです。癒し系、お料理もやさしい料理じゃないとこれからは難しいと思う。創作料理を一番先にやったのは僕ですから。 でもそれが創作料理になっていないお店も多い。
もう一回昔に帰って、日本の良さ、自然が育んだお野菜とか、そういうものを上手に取り組んで、自分なりのスタンスで国境をなくし、もっと癒し系の創作料理、和食が出来たらいいなと、また地方地方に合ったお料理を大切にしていきたい。 『もっと食べたいな』と言われる料理を作り続けていきたい。

木原
私は真言密教の僧侶でもあるんですが、我々の世界も形骸化してしまっている気がします。 事相と教相といって、事相が実践で、教相が理論なんです。でも最近は原点が忘れられて形だけで、心が育っていないような気がします。
日本料理あるいは、創作料理という言葉は新しい言葉なんだけど、その原点は何なんでしょうか。

中村
王道です、基本ですよ。ここが出来ていないと、創作料理は出来ない。
「見ざる、言わざる、聞かざる」という諺がありますが、今は聞いて、己を信じないと、自分の世界ってなかなかできない、また自然にも神の力にも逆らったら、何もできない。

木原
なるほど、これを聞いて安心しました。中村孝明の新しい創作料理のオンリーワンが楽しみになりました。私もある時、仏像をお店に飾った料理店を作ったらどうだろうかと考えたことがあり、今もそれはまだ心の中に温めているんですが(笑)。

中村
あっ、いいですね。

木原
聖域と俗なる世界とを合体させ、かといってめちゃくちゃにするということではなく、そこに集まった人達が手でも合わせて帰ろうかな、というような癒しの環境を創り、それと美味しい料理が結びつくというような場を創りたい。まあ、これは夢のまた夢ですが…。(笑)

中村
凄い! 今は日本人の2人に1人は糖尿病ですから、和食しか食べられない。だから、五穀米とかいろいろなお米にこだわったり、もう一回日本の食の原点に還っていくことが大切だと思う。

木原
日本人は共食文化、食べるのが好きな民族。何で好きなのかな、と調べましたら、稔ったものは天地宇宙神の力によって授けられたものだから、まず神様にお供えする、そのお供えしたものの命を皆で感謝をしていただく、そこで、一つの共食の文化が出来たらしいんですね。

中村
今日、先生とお話しして、今までの対談の中で一番楽しかった。本音で話したから。やっぱりいつもはそれなりには構えて話さざるを得ないから。 今日は、全部言ったことを書いていいですよ、本当のことだから。

木原
私こそ本当に楽しかったです。本音が聞けて、料理の話題も尽きない。 またいつか、先生の新創作料理オンリーワンを見させていただきたく思います。 今日はお忙しい中、本当にありがとうございました。くれぐれもお身体を大切にしてください。





料理の鉄人 中村孝明
長崎県島原市生まれ。雲仙宮崎旅館・オリエンタルホテルでの修行を経て、なだ万へ。なだ万では、ホテルニューオータニ店・シンガポール シャングリラ店などの料理長、9店舗の統括料理長を務める。平成8年フジテレビ『料理の鉄人』デビュー。その後、㈱灘萬を退社し、独立。現在、有明・銀座・横浜・高松などに6店舗をかまえる。