一千有余年の悠久の歴史が今なお息づく伝統の祭り・・・相馬野馬追
福島県原町市を中心に開催される国指定重要無形民俗文化財「相馬野馬追」は、戦国時代のその昔から一千有余年の歴史を誇る日本を代表する伝統文化行事です。
毎年七月二十三日、二十四日、二十五日の三日間、六百騎の甲冑騎馬武者が出場し、勇壮絢爛に繰り広げられる戦国絵巻であり「世界一の馬の祭典」として世界中に知られています。
その出陣式から野馬追までを追いかけながら、そこに、秘蔵されてきた日本精神(魂)の伝承を探ってみることにしました。
相馬野馬追の由来
相馬藩の始祖「平小次郎将門(たいらのこじろうまさかど)」は承平七年(九三七年)、今をさかのぼる一千余年の昔、相馬御厨の官職にあったころ、新しい軍事力として馬の活用を考え、下総国葛飾郡小金ヶ原(現在の千葉県流山市付近)の牧に野馬を放牧し、関八州(北関東八ヶ国)の兵を集め、野馬を敵兵に見立て野馬を追い、馬を捕らえる軍事訓練として、また、捕らえた馬を神前に奉じ妙見の祭礼として行ったのに始まるといわれています。
その後、今から約六八〇年前の元享三年(一三二三年)、相馬氏はそれ迄不在にしていた奥州、行方群 (現在の原町市)に移り住んでからも、代々相馬藩主が明治維新までこの行事を連綿と続けたのであります。
一日目・・七月二十三日

■出陣(相馬市)
出陣は相馬中村神社・相馬太田神社・相馬小高神社の各妙見神社で行われます。軍者の振旗を合図に螺役が高らかに螺を吹き、いざ出陣。
■大将お迎え(鹿島町)
北郷(鹿島町)勢騎馬隊約百騎は、総大将を鹿島町の土樋で出迎え、宇田郷勢と合流し、隊列を整え総大将をお迎えする北郷陣屋へと向かいます。総大将お出迎えの儀式は古式に則ったもので、総大将よりの伝言は早馬により逐一知らされ北郷陣屋にはひときわ緊張感が漂います。
■宵乗り競馬(雲雀ヶ原祭場地・原町市)
午後二時、原町市の雲雀ヶ丘祭場地では、馬場清めの式を行い螺役の陣螺を合図に、白鉢巻きに陣羽織、野袴姿の騎馬武者達による古式馬具を着けての宵乗り競馬が一周千メートルで行われます。
二日目・・七月二十四日

■お行列(原町市)
午前九時、原町市の北方、小川橋付近に終結した騎馬隊は、陣螺、陣太鼓が鳴り響き号砲の花火が炸裂すると、先祖伝来の甲冑に身を固めた六百余騎の騎馬武者は、威風堂々にして豪華絢爛な「お行列」を開始します。
■甲冑競馬(雲雀ヶ原祭場・原町市)
正午、陣螺、陣太鼓が鳴り響くと、兜を脱ぎ白鉢巻きを締めた若武者が、大坪流の手綱さばきのもと、先祖伝来の旗指し物をなびかせ、人馬一体となり風を切り疾走する勇壮な甲冑競馬が開始されます。
■神旗争奪戦(雲雀ヶ原祭場・原町市)
午後一時、山頂の本陣から戦闘開始の陣螺が鳴り渡ると、満を持してた数百騎の騎馬武者たちが、夏草茂る雲雀ヶ原一面に広がる。天中高く打ち上げられた花火が炸裂し、二本のご神旗がゆっくり舞い下りてくると、数百騎の騎馬武者がこの旗を目指しどっと駆け出し、ご神旗下に群がり鞭を振りかざし勇壮果敢に奪い合います。雲雀ヶ原祭場地は、戦場と化し祭りは最高潮に達する。
三日目・・七月二十五日

■野馬懸(小高神社・小高町)
小高町の相馬小高神社境内で行われる神事です。騎馬武者数十騎で裸馬を、境内に設けた竹矢来の中に追い込み、白鉢巻きに白装束をつけた御小人と呼ばれる者たちが、素手で荒駒を捕らえ神前に奉納する古式にそった行事です。
相馬野馬追の本質とは何か?
こうした野馬追の一連のドラマを見る限りにおいて、戦国絵巻の伝統文化行事に見えますが、ただそれだけで一千年以上も続くでしょうか。 しかも、出場者はそのための経費はほとんど自前だそうで、中にはこの日のために、馬を飼っている人も多いといいます。 餌代だけでも年間相当かかるらしく、それ以外の経費を考えても出場者の負担は相当なものが予測できるのです。
野馬追に息づいている三つの精神があると聞きました。それは
一、武士道
一、妙見(北斗七星)信仰
一、愛馬の精神
だそうですが、その奥にあるのは日本精神の伝承のなにものでもないと感じられました。
その日本的精神のいくつかを次に列記してみます。
日本的精神の特質
一、自然崇拝(マナイズム)
一、精霊崇拝(アニミズム)
一、祖先崇拝(アンセスティズム)
一、弱者を思いやる
一、死の美学を持っている
一、奴隷制度がない
一、武士道精神
これ以外にも、日本的精神の特質はありますが、これらすべてが「相馬野馬追」の精神には見られるのです。 その一例として、土地のある人に聞いた逸話の内容に、そのことのいったんを垣間見ることができます。
相馬野馬追に日本精神(魂)の伝承が見える

隣国の強国である伊達藩が、江戸に出陣したおり帰りには相馬地方を通らねばならないが、武士達は疲れ切っており、その隙をねらって、攻めれば勝つことはできる。
しかし、相馬藩はその武士達をむしろあたたかく持てなしてあげたとのこと――。
権力中心の中央武士社会では考えられないようなことが、東北の相馬藩には育まれていたのです。 それは厳しい寒さや耕作土壌に必ずしも恵まれない自然環境の中にあって、人々が共に助け合って生きなければ生きていけない――という精神がそうさせたのかもしれません。
野馬追を誇りにし、育み伝承してきた相馬藩の藩主・藩民の日本的精神(魂)の素晴らしさであり、だからこそ千年以上も続いているのだと思います。
欧米型の弱肉強食の市場経済学に翻弄されてしまい、今の日本にはそのような弱者を思いやる経済学や、精神土壌が見られなくなっていることは、非常に危惧すべきことで、早くその日本精神(魂)の復活をすることこそ、焦眉の急務ではないでしょうか。
『日本の教訓』が秘められている相馬野馬追を、単なる戦国絵巻の伝統行事としてはならない。 そんな想いが胸を込み上げながら、今年の相馬野馬追を取材させて頂きました。