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国体とは何か


国体と政体
国体は、その国特有の国のかたちである。神話や歴史、伝統的価値観、民族文化などの背骨をもち、多くの場合、王政・君主制をともなっている。国体に対応するのが、国土の保持や治世、外交などをうけもつ政体である。政体(権力)は、国体(権威)の認証を得て初めて、権力としての正当性を発揮できるのである。

国体と政体の両方をそなえた先進国家は、日本のほかには、イギリスなどヨーロッパの王政国家があるだけで、立憲君主国家は、国連に加盟している一九二の国のなかで、二十数国にすぎない。フランスやロシア、中国などは、みずから歴史の連続性を断ち、アメリカは、歴史そのものをもたない。その他、多くの国々も、戦争や植民地化などによって、国体を放棄しており、世界の大半は、民主主義を掲げた政体国家である。


国体と憲法
国体をもたない国家が、国体の代用にするのが、憲法である。政体(政権/権力組織)が、国家の神格的権威である国体の代わりに、権力の正統性を憲法にもとめるのである。だが、権力の都合で変更できる憲法は、国体の代わりにはなりえない。

イギリスが、成文憲法をもたない理由は、王政という国体のなかにくくりこまれているコモン・ロー(不文法)が、制定法(成文法)をこえているからである。国体が、実体だからこそ、歴史の連続性や伝統文化、民族の価値観や習俗をうけついでゆけるのであって、条文にすぎない法律に、国体の神格性をもりこむことはできない。 


国体と政体の錯誤
日本も、明治政府が大日本帝国憲法を制定するまで、成文憲法をもたなかった。天皇が統べ知ろしめす国体があったので、代用品にすぎない憲法は、いらなかったのである。明治憲法制定の際、伊藤博文は、「わが国体人情に合っていない」として、元老院が作成した草案を廃棄している。

ところがのちに、欧州で憲法調査を終えて帰国した博文は、閣議で、みずから起案した憲草案を示した際、「憲法政治を施行して国体を変換――」と発言して、金子堅太郎から「万世一系の天皇が統べ知ろしめす国体に変換はござらぬ。国体と政体をとりちがえるなかれ」と噛みつかれている。成文憲法を制定すれば、国体が憲法にささえられる形になって、天皇の政治利用という道筋がひらかれる。


国体の危機
磐石だった日本の国体が、明治憲法が制定されてのち、天皇が軍服を着るという権威(国体)と権力(政体)の合一が生じて、不安定になった。その誤りが、尾を引いて、前大戦後の天皇体制の危機につながったというのが、私見である。

現在もなお、日本の国体は、歴史の連続性や民族の価値観を断ち落としたGHQ憲法の下位におかれている。その歪みが国体の危機となってふりかかってきたのが、小泉政権下における「皇室典範改悪」だった。万世一系(皇位の男系男子継承)の否定という国体変更の企図は、八世紀の道鏡以来の不祥事で、秋篠宮親王に男子(悠仁親王)誕生という神風が吹いて、一応、危機が回避されたものの、再燃が懸念される。  

私は、一日も早く憲法を改正し、皇室典範を憲法の枠外、上位に置くべきであると思っている。天皇=国体というとらえかたは、権威である天皇が、権力である幕府に権力の正統性をあたえる一方、収穫や繁栄、民の幸を祈るという、三位一体の中心におられるところからきている。吉田茂は、かつて、こうのべた。

「日本においては他国におけるがごとき暴虐なる政治とか、あるいは民意を無視した政治のおこなわれたことはないのであり ます。民の心を、心とせられることが、日本の国体であります」 聖徳太子が隋の皇帝に送ったとされる親書に「日の出ずる処、日の没する処」(六〇七年/推古天皇)の文字があり、翌年、遣隋使小野妹子の携えた国書にも「東の天皇、敬みて西の皇帝に曰す」とある。民の幸を祈って、正統性なき権力をみとめないという絶対善を打ち立てた天皇が、一方で、国家の独立と尊厳をまもったのである。


国体観の再認識
中世の体制は、朝廷のほか、摂関家や大寺社、将軍家や武家集団が、それぞれ支配圏をもつ分権構造で、統一国家の体をなしてはいなかった。にもかかわらず、内戦をへず、天皇を中心に統一されていったのは、国体という意識がはたらいたからである。神国思想や皇国史観(記紀など)、天皇家長論(家族国家)、国家道徳や忠君愛は、その過程からでてきたもので、日本人は、何よりも、国体を信じたのである。