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夏越の祓

古来人々は不浄(穢れ)を忌み嫌い、清浄であることをもっとも重視しました。そのため穢れを取り除く方法として、「禊(みそぎ)」が行われたと考えられています。「禊」とは塩水に浸かって体を洗い浄めることでした。塩水は古くから罪や穢れを浄める力があり、海に通じる清流や滝もその代わりで、あらゆるものを洗い浄めると信じられていたのです。そのため、禊の場に清浄な海浜や川が選ばれ、その際、手には麻の葉、茅草などを持って行われました(お弔いのときの塩まきや、相撲力士が土俵でする塩まきも、禊=お浄めです)。

『古事記』と『日本書紀』には、イザナギ命=伊邪那岐命の竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原での禊祓(常闇の黄泉の国の穢れを祓うため)と三貴子誕生の説話が記されてます。他にも、スサノオ命(スサノヲ命・須佐之男命・素盞鳴尊)が高天原で天津罪を犯し、祓えと祓物(千座置戸)を出す説話が記されています(農業妨害の罪の祓)。さらに大国主命の「八千戈の神語歌(かみがたり)」の中で、黒御衣・青御衣・赤御衣を次々に脱ぎ替え投げ棄てて、海辺で禊祓の儀式のようなことを行っています。

「禊」「祓」
「禊」と「祓(はらえ)」は神道の基本(根本思想)となるものです。「禊」は、身の穢れを取り除いて浄め、神に近づくに相応しい身になるためのもの。また「祓」は、神に祈って心の穢れを取り払う神事です。その祓の中でも、6月と12月の大祓(おおはらえ)は特に重視され、12月大晦日の大祓を「年越しの祓」、6月の晦日(30日)の大祓を「夏越の祓(なごしのはらえ)」といいます。

夏越の祓
「夏越の祓」は、6月30日に、このイネ科の多年草「茅萱(ちがや)」で作られた茅の輪をくぐって半年間の穢れを祓い息災を祈る神事です。この夏越の祓は「水無月の祓」とも呼ばれ、「水無月(みなずき)の夏越の祓する人は 千歳の命 延ぶというなり」と平安時代から詠われていました。すでに天武天皇の時代から六月晦の日に、内裏朱雀門に天皇以下百官が集まり、茅の輪の祓物をくぐって邪気を払ったとされています。1月から6月までの穢れを祓った後、7月から12月の残り半年分の穢れを、以前は12月大晦日に「年越の祓」として、宮中や各地の神社で大祓が執り行っていました。

日本では古来より、清浄を重んじてきたましたが、日々の暮らしの中で知らず識らずのうちに不浄に触れ、過ちを犯すこともあり、清浄であるべき身や心は、こうした罪や穢れによって濁ってしまうと考えられていました。そこで1年に2度、心身のこうした罪や穢れを祓い清めて、直く正しく清々しい神ながらの人間生来(しょうらい)の姿に立ち返り、気持ちも新たに明日の生活がより良いものとなるようにとの祈りを込めて行う禊の神事が大祓なのです。

茅の輪くぐりと和菓子の水無月
ところが年を追うごとに「年越の祓」(「除夜祭」ともいわれる)の行事より、6月の夏越の祓だけが盛大に行なわれるようになっていきます。来るべき夏の暑さや、木の芽立ちの疲れに備えて、知らず知らずのうちに人々の間で、夏越の祓いは節目の風習として、定着していきます。この夏越の祓では、「茅の輪」をくぐって禊をし自らを清めたり、身代わりの形代(紙を人の形に切り抜いたものなど)に託した罪や穢れを川や海に流して祓い清めたりします。

また人間だけでなく、牛や馬なども海水に浸かります。神社によっては名前や年齢を書いた人形をそのまま海や川に流すのではなく、灰にしたり、茅で包んだりするなどして流すところもあるそうです。

6月(旧六月)は「水無月(みなづき)」と書きますが、ちょうど梅雨のころで、水が無いわけではありません(「無」は「な=の」の「万葉仮名」)。もとは「水の月」であり、田んぼに水を注ぎ入れ田植えを始める月であることを示しています。ちなみに、この6月にはその名も「水無月」という和菓子(生菓子で三角の外郎生地に小豆をのせたもの。水無月の三角形は氷室の氷を表し、小豆は悪霊払いを意味を表しているそうだ。6月朔日に氷室の氷を口にすると夏痩せしないといわれた)が京都で知られています。和菓子の「水無月」は、6月30日の夏越の祓(なごしのはらえ)に食べるものとされ、これによって災いを祓い、ひと夏の無事息災を祈ったのです。 

神社と大祓の儀
『神祇令』には6月・12月の晦日に、中臣が御祓麻(おおぬさ)を奉り、東西の文部が祓の刀を奉って祓詞を読み、百官の男女が祓所に集合して中臣が祓詞を読み、卜部が解除(はらえ)をすることが規定されています(律令制下で国家的・公的行事として大祓式が行われる)。『儀式』や『延喜式』でも、朱雀門に百官の男女をはじめ、天下万民が集まって祓えを修したと記しています(大祓は大嘗祭のときや、触穢・疫病・天災地変があったときに行われる)。

しかし、中世以降衰退し、ことに応仁の乱以降、戦国の世になって廃絶しましたが、宮廷では元禄4年(1691年)以降、内侍所清祓として復興し、明治4年に至って賢所前庭神楽舎を祓所にあてて行われるようになりました(明治5年6月、大祓式の儀式次第が府県に達せられ、大正3年2月内務省訓令で官国弊社以下神社における大祓が定められた)。

一方、民間でも6月の大祓、夏越の祓(なごしのはらえ)・水無月の祓(みなつきのはらえ)・おんぱら祭などと称して、茅の輪を作ってこれをくぐり、また人形を河海に流す等の祓えの行事は、宮廷行事として行われた時代においても広く行われていました(元来は常に清浄を希求する日本民族の国民性に発した民俗行事であった)。

これが神社では一層盛大に恒例化して、今も全国神社では大祓は年中行事となっています。六月晦日の夕刻、神社の境内では竹を立て、高さ六尺くらいの茅の輪を作って、それをくぐることによって祓の儀としています。

禊祓の起源
『古事記』と『日本書紀』によると、伊邪那岐大神(イザナギ命・伊邪那岐命・伊弉諾尊)が竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の阿波岐原(あわぎはら)にある小さな水門(みなと)で黄泉(よみ)の国の穢れを除くために「禊祓(みそぎはらえ)」を行ったという記述があります。これが「禊祓」の起源とされています。

これは汚い黄泉の国から脱出してきた伊邪那岐命が「私は何と汚い国へ行ったものだ、禊をしよう」といい、朝日のよく当たるところの水門で禊祓をしたという事です。いよいよ禊を行うにあたって、伊邪那岐神は身に付けていた物をことごとく投げ棄てました。この時投げ棄てたのは、御杖・御帯・御嚢(みふくろ)・御衣(みけし)・御褌(みはかま)・御冠(みかがふり)・左の手纏(たまき)・右の手纏などで、これらから十二柱の神々が生まれたとされています(神道ではこの時に諸々の祓戸の大神達が誕生したことになっている)。

このように、身に付けていた物をことごとく脱ぎ去っている事から、「禊」の起源は「身削き」とするも説があります。また、水中に身を投じ身を振りすすぐ事、これら全部が「身削ぎ」との説もあります。

「ミソキ」とは現在一般に「禊」の字を当てていますが、古くは身曾貴・身祓・潔身・身滌等と表記されています。特に「滌き」は、アラフ・ウゴカス・ススグ・ソソグ・ハラフ・キヨシとも読む事が出来ます。

これらの読みからも分かるように「滌き」とは水中に身体を浸してゆらゆらと振り動かす事で、身体を振るって罪穢れを洗い落とす事なのです。それは単に衛生上のためだけでなく、そうする事により魂を純潔無垢の状態に立ち返らす効果があり、水中で身体を振ることは、一種の魂振り(たまふり、鎮魂)の所作なのです。

日本人の罪悪感を表す言葉に、「罪(つみ)」と「穢れ(けがれ)」があり、宗教的な意味合いで使用されますが、同時に倫理的・道徳的な立場においても用いられます。この罪や穢れを捨て去って、心身ともに清らかに立ち返るために行われる神道的儀式が、「禊」と「祓」です。禊と祓は、神道の根本的思想をなす儀式として重視されてきたが、その思想が広く日本人の生活の中に現在も活かされていることは、注目すべきことなのです。

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