TOP > 終の章 > 第47章 21世紀世界の中核的媒体


第47章 21世紀世界の中核的媒体
 

偉大なる歴史哲学者
仲小路彰とのシンクロニティー

昭和43年(1968)に初版出版された「未来学原論」の著者である仲小路彰の思想も、コスモロジカル視座から地球の未来学を体系化しており、しかも、その洞察力たるや千里眼の持ち主のごとく、文明・歴史・哲学・文化・地政学・自然科学・社会学・戦争学・・・等、総合的・球体的に包容しており、その根源性を日本文明に置いているところに独自性があります。

混迷渦中に飲み込まれて埋没寸前にある危機的現代文明を脱却し、21世紀はもとより、世界・人類(万類)が進むべき預言的シンボリズムとして、他の同類を微塵も寄せつけない法理かつ実践書であるところに「未来学原論」の真髄があります。

仲小路彰先生は東京大学を卒業し、佐藤栄作元首相とは同級生であり、昭和21年(1946)に、既に『グローバリズムよりコスミカリズム』という言葉を、「未来学原論」の中で書いていらっしゃいます。

当時私は、宇宙本位という言葉を使っておりましたが、たまたまこの本をご紹介くださった方から、「あなたがやってる『誇れる国づくり・魅力ある人づくり(ISC地球運動)』の事が、この中に書いてありますよ」と言われたのです。

これまでこの本は、時には経団連の第三代会長の植村甲午郎氏、渋沢栄一氏のお孫さんたち、松下幸之助氏が大きく影響を受け、その他、この本の内容に魅せられた先人達が、あたかも天の岩戸開きのように、その扉を開きかけたのですが、歴史上の聖なる預言書の宿命と同じように、その内容のあまりの真摯性の為、時には浮き、時には沈み、熟成しながら歴史の動くのを待っていたのです。

そして、日本国破滅の危機にある今、縁あって、ISC地球運動の一機関であるCMF国際大学で再版させていただきました。誠に光栄なことであります。
こういう偉大な方が日本にいらっしゃったことは日本の財産です。
以下、その一部を抜粋してみます。

図1 未来学原論
 

未来文明創造の原型としての日本文化

「未来学原論」より抜粋 仲小路 彰 著

戦後20年にして再び日本に帰れの要求が、あたかも明治100年を機会に、いまや抑えがたい情熱をもって要望されつつある。

近代日本形成の過程にあって、明治以来約20年を一時期として、歴史の呼吸のように転回したのを見る。

明治20年までは、開国後のいわゆる文明開化の時期として、あらゆる先進西洋文明の吸収に全力をあげたのである。

それより明治23年、帝国憲法発布以後明治末までの約20年間は、国家的自覚のもとに蓄積された国民的エネルギーのさかんな高揚をみたのである。

次に大正時代から昭和の初めにかけて、世界文化の影響の下に、いわゆる大正デモクラシーなる自由主義的ヒューマニズムの宣伝された時期であり、これに次いで昭和20年に到る満州事変から終戦までの強烈な日本中心主義の実現が見られた。

そして、これに対する反動として、戦後20年に及ぶアメリカニズムのあくなき流入があり、しばしば日本文化は抹殺されて、日本人は根なし草として、他国から批判されるほどであった。

かかる約20年毎にみる変換の歴史的現象は、主観的には日本が他国にあこがれ他文化を吸収する時、客観的には外圧のために苦しい自己沈潜を余儀なくされる。

一方、主観的に日本ヘの回帰が強く要求される時、客観的には、前の時期に蓄積された民族的エネルギーが爆発的に自己放出するのを見るのである。

しかも、いまや再び日本的自覚が内部から強く要求され、大戦後のアジア、アフリカの新興諸国のナショナリズムの激発とともに、アジアの先駆者としての日本文化の本質がなんであるかを各国とも異常な関心をもって研究しはじめた。

日本文化は現代にいかなる意義をもつか――それは日本文化が世界に対しなにを寄与しうるかという問題である。

これまで日本文化の理解に際し、ともすれば特殊な趣味か、専門的な興味として考えられる傾向が多く、とくにその一見、封鎖的な特殊性がいかに世界文化と関係するかに理解しがたい点の多分にあったことも事実であった。

しかし日本文化は、本来決してこのように偏狭な、また世界文化から遠くへだたって孤立した特殊的なものではない。

日本文化は、もとよりそれ自身の独自性をゆたかにもつとはいえ、その根底には、古来つねに複雑な世界文化との交流を内包し、各時代にそれぞれ象徴的に生命化してきたのであり、それ自体のうちに世界文化の多変的なもの、異質的な多様性をひろくとらえ、ふかく融合、統一し、もっともよく理解し、さらにより磨きあげたものとした。

たとえば、正倉院御物にもみるように、すでに1500年以前に、日本文化は遠くローマ、オリエント、西域(ペルシア、ギリシア、西南アジア)からインド、中国全域にわたる諸文化の精髄をことごとく包摂し、象徴化し、結晶せしめていた。

この世界諸文化を綜合し結実せしめた文化史的業績は、今日東西の世界文化が合流し、対立し、矛盾しつつも、やがて大いなる地球文化を形成しようとしている現代の文化感覚によって、はじめて正しく感じとられうるものである。

これまで日本文化の本質理解を、ともすれば誤まらしめた大きな原因は、各領域の鎖された専門化によって、たとえ自己の専門領域には深い研究をもつとしても、他の部門との関係を見失い、あるいは意識的に切断し、日本文化の世界文化的位相における綜合性という特質を忘れがちであったことにある。

また、新時代に新しい文化を求めようとするものも、一面的に世界文化をもとめ、ただ日本文化の伝統を旧いものとして否定することが多く、そのため日本文化の地球的本質が抹殺されることはもとより、世界文化そのものも主体的にとらえることができなかったのである。

これらの傾向は、いずれも日本文化の本質を正しくとらえるものではなく、むしろ世界文化の位相のうちにのみ正しく見出される日本文化の生命に対して、最も大きな誤まりを犯していたとされねばならない。

こうして日本文化をとらえる場合、その歴史的特質を無視して、かえって自己の劣等感からすべての日本の文化的伝統を否定し、それをすでに死滅した過去の残滓とするか、あるいはまた、西洋文化の終末性を強調し、一面的に東洋文化の至上性をのみ主張する逆の劣等感をもってしては、決して正しくその本質をみることはできないのである。

東洋文化も西洋文化も、たとえ表面的には二つに分れているにせよ、「地球の場」においては球体的に一体化されている。

かかる球体感覚(サンス・グローバル)こそ、未来文明形成の最大の基礎である。

その相補的関係にある世界文化の本質をこそ把握すべきであり、この根源的統一性を、それ自身のうちに最も象徴的に体現しているものとしての日本文化の綜合的特質をみるべきであろう。

ともすれば、この二つの文化を相互に分裂せしめ、互いに理解の彼方にあるものとみなしがちであるが、その内面的理解をもってするならば、必ずやあらゆる対立物の根底にそれを綜合・調和する地球的統一性を見出しうるであろう。

このような綜合の文化形成を原型的にあらわすものとして、日本文化がとらえられるべきである。

いまや全世界にわたるアメリカ文明、ソビエト・イデオロギーのとうとうたる氾濫のうちに、ともすればその物質的機械化に重圧されて、生ける文化の魂の失われようとする危機を否定しえない。

しかも現代は、この巨大な物質力をも包括して、より偉大な地球的文明を創造すべき歴史的転換期に際会しているのであり、いまこそ、日本文化の特質とする文化綜合性が、なによりも必要な根源的創造の原理と内的生命をあたえるものとして、再認識されねばならない。

二つの世界――東洋と西洋、自然と文明、精神と物質、南と北、大洋と大陸……等、多くの対立面をどのように調和・綜合するか――ここに現代の最大の文化的課題がある。

しかも日本文化は、かつて仏教、儒教、西域的なものと東方的なもの、大陸と大洋など、古代世界文化の一つの象徴的綜合統一化を、それぞれの内的本質の把握のうちに実現し、いまなお深い文化の伝統として伝えている。

この文化的生命の純粋持続は、危機に立つ現代世界文化に対し、その克服と、さらにより大なる発展ヘの希望として存在するものであることを信ずるものである。

まことにグローバルな感覚をもった人類文化の魂によって日本文化が理解され、また人類文化をより完全なる発展にみちびくためにも、日本文化の本質が明らかにされるべきである。

その地球的位相においてのみ、日本文化と西洋文化とは、いっそうあざやかな照応を示すであろう。

写真 石庭

日本文化の本質は、今後に来るべき地球文化の創造過程において、正しく全人類の心に理解されるものとなるであろう。

このような世界文化への創造的寄与の問題として、日本文化の真の姿を明らかにすることこそ、現代において日本文化を照明する根本的意義でなければならない。

しばしば日本文化はシナ文化の模倣として、何ら創造性のないものと自己否定し、また近代西欧文明に対する劣等コンプレックスを感じて、何事にも彼方をあこがれて自らを無視、忘却しようとする一部の文化的人間がある。

これに対して徹底的に反抗し、海外文化を排撃するところに日本文化の真実があるとする偏狭な排外主義が狂熱的に主張されたが、このいずれにも日本文化の本質は存在しない。

否、むしろ、かかる対立、矛盾を超越する高度の調和性の磨きあげの中にこそ、日本の本来的伝統が脈脈として生成発展したのである。

大洋と大陸の間に南北に長くつらなる日本列島こそ、その形態からして地球的諸洲を縮図化したものであり、それ自らに地球文明の母胎をなす運命をもっている。

世界史の発展をなす根源力なる諸宗教に対しても、日本こそ、あらゆる信仰の平和共存を見事に実現する未来的原型を本来的に実存せしめているのである。

南と北なる先進国対未開発国の対立こそ、21世紀の最大の問題となることは必然であり、かかる人類的矛盾をすでに日本は長い歴史の過程の中に完全な融和をもたらしたのであり、これこそ次に来る、国土開発のモデル的存在となるを示すべきである。

さらに、イデオロギーの激しい和解しがたい闘争をいかに解決するかについて、日本文化こそ、すでにすべての思想闘争、イデオロギー論争を、ことごとく平和的に融合することに成功した。

こうした日本文化の本質は、果して何を根軸とするのであるか。

それこそが日本史をつらぬく、光の象徴としての、皇統文化の発展であることを知ることによって、はじめて、未来文明創造の原型としての日本文化の真実を解明し得るのである。

この意味で日本文化は他国文化を吸収するのみならず、むしろそれぞれの本質をより純粋化して、自らの中に反映せしめるという昇華力をもっている。

そして日本文化に投映された他国文化は、仏教の大乗性や儒教の王道文化等に見るように、すでに故国では失われたものが、完全に磨きあげられて残存しているのみならず、さらに西洋のキリスト教文化や科学技術文明に対しても、それらが見事なハーモニーとして形成されるという創造力を示すのである。
 

日本文化の象徴的創造

一切の封鎖的偏見にとらわれることなく、地球の相の下における日本の本質を明らかにするとともに、その存在を単に平面的画一的な世界に解消せしめるのではなく、あくまでもグローバルな地球性との連関のうちに日本の不滅の生命が確立されねばならない。

日本の永遠なる純粋本質を地球の未来の相の下に映出することこそ、地球の根源性の球体的調和・交響の上に、決定的対立を示す世界矛盾を揚棄し、新たなる地球創造の光の発現となることが可能であろう。

日本文化の真実の姿を明らかにすることこそ、今日の日本の至上命法でなければならない。

天皇は日本の象徴であり、さらに未来文明の光の象徴たるべき伝統を本有している。

「象徴」こそ、日本文化に基本的な特性を与えるものである。

日本のあらゆる文化的創造は象徴の相の下にその美をあらわし、象徴の真理は顕現し、善は象徴において最高善となり、永遠の生成発展をなす象徴の原理となる。
人類史の発展と人間の文化創造は、その最高の願望と理想を地球の交響と調和のうちに示しつつ、さながら神々の営みの如く、時間空間のより高次的なる根源的創造力をあらわす。

地球の宇宙的存在の意義と本質は、20世紀後半における人類の地球創造において、太陽エネルギーの根源的生産力を内面化すべく、ここに悠久の人間創造史を未来創造に投影しつつ、その長き歴史の放浪の後に、いまこそ、象徴の本質を日本文化の純粋性において見出そうとする。
 

地球文明と日本

日本文化とは、その創成のはじめから、広い地球文明との交錯・交流のうちに生れたものであり、たがいに分裂、対立する世界諸文化の混沌を調和し、大きな秩序をあたえ、そこにゆたかな花と結実をもたらすところに、その本来の特長があった。

このような文化的特質にもかかわらず、日本における外来的諸要素を分割し、それ以外のものを純粋な日本であると考えることは、日本文化の本来的特性を自己否定するものといわねばならない。

同時に、日本文化が世界史的普遍性にあるとして、西欧史発展の形式を公式的に適用し、日本文化の生命を解消せしめる非科学性もまた、日本文化の正しい認識ではない。

原始以来日本文化は、その内的生命のうちに地球文明と交響し、世界諸文化の綜合を結実したのである。

それは世界文化を日本文化の内面に最も純粋な相において包摂するとともに、また日本文化の創造発展において、世界文化史の全内容を象徴化する、真の地球的本質を知るべきである。

かくて日本文化は、エジプト、スメール、バビロニア、ヒッティト、シリア、ミノス、ギリシア、ローマ、サラセン、インド、シナ、太平洋、ヨーロッパ、アメリカ、マヤ、インカ等の諸文化圏の文化的諸内容との内面的関連をもち、その人間の文明建設史は、地球文明の生命的波動として、日本文化において最も象徴的にとらえられるものである。
 

アジア太平洋と日本

ユーラシア大陸と太平洋を結ぶ日本の地理的存在は、有史以前よりアジア太平洋との密接不離なる関連を示している。

アジアの多変な文化的諸要素は、日本文化の生命の中に激動する史的混乱と危機をこえて流入し、沈潜し、深い伝統を形成するのであった。

すでに今日、アジア各地には、かつてあれまでに栄えた古代文化もほとんどその残影さえもみることができないが、ひとり日本文化のうちに、その生命的伝統を伝え来たったことは歴史の驚異でもある。

そして、この日本文化の特質が、20世紀のアジアに何を与えたかは現代史の課題でもある。

まことに日本文化の本質的認識こそ、全アジア太平洋文化を理解せしめる鍵であり、日本文化のルネサンスこそ、アジア太平洋の新しい復興の原動力となるものである。

日本とアジア太平洋との今後の提携協力は、この上代アジア太平洋文化圏以来の深い歴史的伝統の基礎のもとにのみ始めて正しく発展されるものであり、そこにこそ、新しい人類文明の高度な創造への中心的原動力が与えられる。

数千年の歴史と、文化の深みにたもたれたアジアの叡智が、いまやその雄々しく賢明な後継者たちの手によって正しく復活し、地球文明の黎明を照らす美しい陽光となるであろう。

日本の若き世代こそ、その文化創造の歴史的実行者とならねばならない。

日本文化は、かかるアジア太平洋運命共同体の中心であり、これこそが、来るべき地球的文明の基盤をなすものである。
 

日本と世界

日本と世界――とりわけ西欧との関連については、それぞれ各分野における歴史的交流を有するのであるが、それがとくに現代世界といかなる関連にあるか――その世界政策的関連を明らかにすることは、きわめて重要な意義を有するものである。

とりわけ平和文化国家としての生存を決意しつつある日本が、世界といかなる関係をもち、どのような国際文化交流をなすかについて展望することは、日本文化の世界交流状況ならびに今後の方向を理解する上に大切な要素となるであろう。

西欧世界の眼から日本を理解することは至難であり、また、これまで日本を知りえたとするものも、ほとんど断片的な趣味か、あるいはまたその日本批判がかえって自分自身の限界性を示すものにすぎなかったのである。

反対に、日本の眼から西欧を理解することは、むしろきわめて容易であり、日本にとってヨーロッパ、アメリカ、ソ連を正確に知りうるのみでなく、同時にアジア太平洋をも完全に保有しているのである。

ここに日本文化の綜合性として著しい特質が存するのであり、いまこそ、日本人は日本文化を正しく自らの内的本性に再発掘することによって、世界認識を明確にするとともに、また世界文化を自らに所有することにおいて、日本の本質を再発見しなければならない。

ここにこそ、今後の日本の世界文化交流の豊かな基礎がひらかれている。

写真 ちょうちん
 

日本歴史における文化創造

世界歴史の示す文明圏の死に至る運命にあって、日本の歴史をかえりみるとき、それがつねに根源に帰ることによって新生する発展方向を示していることは、今後日本史と世界史との関連に重要な課題を提起するものである。

しかも、この生命のルネサンスとしての日本史の本質が、最近の歴史研究においてすべて意図的に否定、抹殺されつつあることは、きわめて心すべき重大問題である。

かかる歪曲をこえて、日本歴史の文化創造性は永遠であり、その真の日本史の意義が明らかにされるべきである。

日本文化のルネサンスによる純粋持続の特質は、歴史を経ることによっていよいよ内的に深化し、文化の根底におどろくべき豊かな内容を深層化したのである。

各国の文化史には、幾つかの興廃断絶、創成から完結までの経過をみるのであり、西欧文明はもはやその完結終末期に達したのであるが、ひとり日本にあっては、その文化的完成が断絶することなく歴史に沈澱し、ルネサンスによって純粋持続され来たったのである。

このため、日本文化には多くの文化的生起死滅の歴史的内容が内包されており、ここにその文化的表現は、単に一回限りの文明持続過程にある人間にはとうてい理解しえないまでに深いゆたかな歴史を負うたものとなるのであり、かくてその文化的創造力は、これによっていっそう偉大になりつつある本質を知らねばならない。
 

日本文化の民族的特質

日本民族の諸特質と意識とはどのように形成されたか――

それが過去において、現在において、また将来にいかなる意義をもつものであるか――

さらにそれは確定された不変のものであり、かつ人類史において絶対的な価値をもつものであろうか――

ことに今日、地球上の国家間の対立や抗争の支柱としての民族主義的なイデオロギーは、果してそれほど価値高いものであろうか――

このような疑問に対する解答は、日本民族の成立過程と民族意識の根源をたずねることによって与えられるのであり、日本文化の民族的特質もここに明らかにされるであろう。

日本人の民族的心理、性格の複雑性、敏感性は、すでにその成立の過程において含まれており、今日なお人類学的に定説をみないまでに複雑であり、同時に日本国土の自然的、風土的特性による厳しい育成成長をみることによって驚くべき多面性をもつにいたったのである。

しかもこの無限の複雑性を内面的に純化統一することにより、日本文化の豊富な内容を極度に単純化するという象徴性の、きわめて高度な創造をとげるにいたったのである。

まさに、それは今後の地球一体化の時代において、各国各民族が次第に融合し、一つなる地球文化を創造するにいたる発展過程――
権力的統制ではなく、生命による創造的統一の原型を、日本民族の発展とその文化形式のうちに示しているものと云いうるであろう。

この融合の理想は、あらゆる諸民族の友愛の原因となり、それによって形成された大和民族こそ、その名のように和をもって他民族を調和すべき原型的モデルをなすのである。

写真 鳥居
 

日本文化と国土の交響

太平洋のタイフーン圏内に浮ぶ日本列島の国土的位相は、その南北に連なる狭長な地理的様相と相まって、四季さまざまの変化、多彩な自然にいろどられ、最も美わしい姿を示している。

この国土の自然に培われた日本文化がどのような性格をもち、いかなる特徴をあらわしているか――
またこの美しい日本の自然を今後いかに発展、開発し、太平洋の楽園ともいうべき日本国土を建設するか――このような国土ヘの理解と未来的ビジョンは、日本文化の永遠の純粋持続を正しくとらえる鍵となるであろう。

まことに日本文化は、国土、自然との内面的連関なしに考えることはできない。

自然を征服し、自然と人間との対立において、文化…文明を見出した西欧とは異なり、日本文化にあってはつねに自然と融合し、自然と一体になることにおいて文化を創造したのである。

一は自然との闘争・征服であり、一は自然との調和・交響である。

しかも、自然の偉大な超越的エネルギーに対して、それを融合・調和するためには、宇宙のごとく文化が偉大であり、文化は宇宙力の発現のごとく生命的創造をとげねばならなかったのである。

ここに自然と人間最高の統一を、その内面性に実現するための文化創造の最大の問題が存したのである。

日本の国土は、その太陽の明るさにおいて、ギリシヤやイタリアに似ており、また狭霧や雪の降るイギリスにも類していて、それは単なる乾きや湿いでもなく、そのよき調和が季節の恵まれた秩序あるめぐりのうちに国土の不滅の生命が恵まれるのである。

台風さへも豊かな水の賜物として吹きすぎてゆくのである。
 

日本文化と宗教の本質

西欧にあっては、一つの神の絶対的支配の下に他のあらゆる神の存在は許されない。

そこには信仰の不寛容と宗教闘争がむしろ必然化されたのである。

また仏教は、その根底に滅亡の悲しみの底にある因果性、無常性を本有して、仏とは夜の信仰として、真如の月を信仰している。

マホメット教はキリスト教と同じく砂漠の信仰であり、はげしい電光を一神として絶対服従を強制する。

しかし日本においては、あらゆる神々がことごとく神の座に美しい秩序をもち、愛の調和と生成の秩序を織りなすのであり、ここに日本文化の大きな宗教的特徴がある。

日本文化の本質は、あらゆる異質的、異邦的な神々をもうけいれ、神の流れの下に「神々の統一場」をもっているところにある。

日本文化の諸領域は、この神々の統一場において神々の座をつくり、生きるものである。

文化の創造力を宗教に求めたA・J・トインビーは、現在における西欧文明の終末性を超えるべき新しい宗教の出現を求めて世界巡歴し、日本に来たったのであるが、しかも彼の終末期にある西欧史家としての限界性のゆえに、なおそれをキリスト教と仏教にのみ見出そうとしている。

今日新しい創造的宗教の出現は、実に原子のもつ宇宙的エネルギーの問題を自己の内容性において生命化し、それを創造的に発現するものでなければならない。

ここに文化の内的本質の原子力性、太陽エネルギー性の問題となり、世界の神々とは実にこの宇宙エネルギーの象徴化にほかならず、かくてその根源なる太陽力的生成と調和が求められるのである。

もともと太古における太陽崇拝は全世界的な信仰であったが、それがほとんど他の力によって否定され、ひとり日本のみ日を嗣ぐものの信仰が天皇信仰として、神ながらの道に統一されたのである。

これこそ次に来る世界宗教の万宗帰一の包合性を明示している。
これこそ、儒教、仏教、道教、回教、キリスト教、その他のあらゆる神々を和解せしめる日本の太陽的宗教の根源性をみなければならない。

写真 文化
 

日本文化と人間の発展

日本文化の流れにおける人間の位置は、つねにきわめて自然と社会の密接な交流点に立って、その歴史的生成を媒介するひとつの汎神的な座をもっとも生き生きとしめすことにあった。

そこには西欧にみる自然と人間、神と人間とのこえがたい対立的存在としてではなく、人間実存の究極の底に神と自然とがわかちがたく一体化しており、そこに普遍的な人間の本質をあらわしてきたのである。

こうして日本人はたえずみずからのなかに世界文化の深いひろがりをうけいれつつ、それを自然の再創造のうちに永遠化してきたのである。

今日、日本における人間の独立的、個性的存在の稀薄さが論ぜられ、前近代的なるものとして批判されている。

にもかかわらず、日本文化における人間の存在と発展の本質は、それと全く異なるものであった。

もし近代的自我、個の自覚が問題とされるならば、日本文化にあっては、すでに遠く万葉、源氏物語の時代に充分に存在するのであり、デカルト以来の近代思想の一つとして日本文化に発見されざるはないのみか、さらにより深い本質と人間観察、人間的自覚をしめしており、西欧におけるシェークスピア、ゲーテ、ユゴー、バルザック、ドストイエフスキー、トルストイ等の傑出せる人間像と対比するとき、いっそう日本文化における人間の問題は明らかにされるであろう。

人間とは宇宙進化の中にある一つの段階として、現代科学はみるのであるが、そこには人間の本質が単に生物以上の神と自然の子としての生命的根源をもっているのである。

日本は神人合一、即身成仏の心境をもっている。

これこそが、必らず次の時代の世界的な人生観となる科学的必然性を示すであろう。
 

日本文化と日本人

日本人――このきわめて難解複雑なる存在に対して、今日さまざまの角度からする批判、分析が行われ、それぞれに結論を見出そうとしながら、しかもなお各側面の研究にとどまり、日本人の根本的本質を見出しえない状況である。

また戦後、日本の内的反省が徒らに日本人自身の自己卑下となって、ついには他の世界各国文化と比較することにより自ら日本を蔑視し、嫌悪し、嘲笑することをもって進歩的なりとする傾向をさえ生み、ひたすら外国讃美につとめ、アメリカを求め、ソ連に追従し、中共を讃え、ヨーロッパに迎合する風潮を一般化した。

かつて戦時中にはあれまでに自己陶酔に陥りながら、いま極端な自己嫌忌に走る――そのいずれにおいても、決して正しく日本人の本質を自覚したものではない。

太平洋戦争の一度の敗北によって、日本人は、かくも自ら堕落するほどに無価値な存在であるのか。

その歴史的判決は、なお今後にこそ真に審判されるものであり、悠久の歴史を負った民族にとって、真の歴史がいかなる発展をとげるものであるかを自覚することが要求されている。

ここに、日本ならびに日本人に対して行われつつある一切の批判、見解、判断を一つ一つ再批判し、日本人の本質を上代から現代にわたり、世界文化、世界各国の歴史的現実との対比において批判的に解明し、それにより地球文化における日本文化と日本人の本質を明らかにする。

今日の日本人は、さながらに日本人そのものを喪失したかに見えるが、実は日本人なる内容に全世界的な要素を吸収融合するための不可欠の課題であって、これにより真にグローバルな人間性を現実的に実現する最善の時期に立っている。

まさに日本人は、名実ともに完全なる地球人たるの条件を具備するにいたるのである。

これが真の太陽の子としての日本人の未来的形態である。
 

日本文化の深層心理

いまや水爆時代の開始とともに、人類の死滅さえ必至と予想される世界の現実に対して、この危機をいかに回避し、平和の方向に転回するか――は、今日最大の問題であることはいうまでもなく、しかも究極的にはその解決が、人間が何をなすかに根本問題の存することはあきらかである。

20世紀の本質は、すでに心理戦争の時代にあることを知るのであり、むしろそこにのみすべてが決定される性格を有するのである。

水素爆弾は最大の武器ではあるが、いまやかえってそれは自己を亡ぼす力以外のなにものでもなく、また政治力、経済力も、ほとんどただ破壊のための方向にのみはたらく硬化した現象を示すことを否定しえない。

ここに日本は、みずからの文化的伝統のうちにふかく蓄積し来たった世界文化、人類の根源的な深層心理によって、終末の危機に直面した病める狂気の文明人に対し、真の文明の深層的本質を解明し、大いなる地球ルネサンスをこそ実現しなければならない。

日本人は美しい国土の恵まれた季節感によって、その情緒がせんさいに養われ、その神経がいかにも敏感である点、いかなる民族心理にも見ないところである。

日本人こそ、複雑明暗な心理の多様性、重層性をもっており、これこそが世界の民族心理、文明心理などに対する最高の心理的分析の寄与をなすものである。

イデオロギーの対立を越えるのは、かかるせんさいな心理的融合の方法以外に今後の平和世界は建設されないのである。
 

日本文化の社会的形成

唯物史観による日本史は、日本の社会を階級的に分析し、貴族、武士、農民などの階級関係が日本の歴史発展の原動力であったと見る。

しかし、その原動力である階級矛盾を直接的に激発せしめたものは、つねに世界性との関係にあったことを認識すべきであり、ただ階級的矛盾だけでとらえようとするとき、きわめて固定的な一面的見方とならざるをえないであろう。

明治維新についても、その原動力を公式的に農民一揆やマニュファクチェアの発展においてみたところで、あの大変革がどうしてできたかを少しも説明することはできない。

むしろ、それは当時の日本が直面した西欧のアジア植民地侵略の危機に対する自覚と、それに伴う国内的刷新の変革行動を通じてはじめてその真因をとらえうるのである。

このように日本の社会は、つねに他との大きな交流・交渉のうちに培われ、形成されてきたのである。

日本の社会は西欧社会の発展段階に比して停滞的であり、それ自らの革命のエネルギーを充分徹底せしめず、つねに権力者の支配の下に抑圧されてきたとされる。

しかし、これらはすべて誤りであり、日本の社会発展を正しく西洋との対比においてみるならば、日本の社会は、はるかに古くより高度に形成され、時代の展開とともにとどまることなく生長発展したのである。

西洋が文明社会としての形をとるのは比較的近代に属するが、日本はすでに古代からすぐれた社会を構築し、平安時代にその1000年の文化を結晶させているのである。

しかも日本の社会は西洋の異民族支配、絶えざる侵略戦争による悲惨な社会変動をうけず、まことに平和な文化社会の典型を示し来たったことを銘記しなければならない。

写真 文化
 

日本文化の思想原理

20世紀の半ばをこえて、いま人類は大きな歴史の転回点の中に新しい運命を開き、光と希望にみちたかがやく地球創造の未来ヘの究極の願望を実現しようとしている。

しかも、一つの文明の終末は、明らかに現代の否定しがたい兆候であり、その生命ある思想を喪失し、老廃した旧きものの一切にとらわれるものは、死滅しゆく文明とともに亡びゆかざるをえないであろう。

ここに数千年の文化の伝統に立つ日本の思想原理は、不滅の生成の根源性において、来るべき世界像の基本体系たろうとしている。
従来、日本には西洋のそれのような哲学体系がなく、ことに近代思想と呼ぶべきものがまことに寥々たるありさまであるとみなされてきた。

しかし、これこそ木を見て森を見ぬ浅見であり、日本文化における思想の系譜は、すでに遠く古代に確立され、ことに聖徳太子にみる神儒仏の綜合は、そのまま当時の世界最高の思想形態なるインドの仏教哲学、シナの儒教哲学を日本の神道哲学のうちに統一した、画期的思想体系というべきである。

さらに平安末期から鎌倉時代にかけて現われる日本思想の多彩な発現は、ギリシア、ローマの哲学時代にも対比されるべきものであり、これ以後の日本思想は、すべてこの1000年の思想的結実を母体として、より深く純粋な思想の原理を究めゆくのである。
 

象徴としての日本文化

日本の文化――それは復興の文化である。西洋の文化――それは革命の文化である。

日本文化はつねにルネサンスとしてあり、あるところに前のものが採用されながら、そこに他のものが入ってくる。

西洋的革命の道を通らぬ日本の特異な発展は、そこに幾世紀もの文化の層を国土の中に織りなし、時代の推移をこえて沈潜し磨かれたものが、生命の純粋持続のようにつづけられる。

そこにたえずルネサンスが生れ、しかも、それはつねに事物の象徴としての深さと反映を担ってあらわれるものである。

日本の根源的象徴は天皇である。

この日本文化の象徴性は、単に日本それ自らへの探求のみによって理解されるものではなく、むしろ他の世界との本質的な対比において、はじめて十全に把握され認識されるであろう。

象徴の文化とは、東洋の特性をなす「空」なるもの、西洋の特性をなす「物」なるもの、その東西世界の根源にある純粋存在――形あって形なく、形なくして形あるもの――の発現であり、ここに必然的に、日本は東洋と西洋とを真に融合諧調せしめる文化創造の本来的運命を有しているのである。

かくて、また純粋存在としての象徴の文化――万世一系なる天皇文化は、一つの文明の終末における悲劇をこえて、人間的実存の根源にかえらしめ、そこに新しい生命の復活を行うルネサンスを、いまや地球的規模において実現しようとしている。

写真 抹茶
 

日本芸術の永遠性

日本の芸術的生命の秘密は、それがあらわされた形としてのこそうとするところにあるのではなく、内面的様式としてのこしてゆくところにある。

ここに日本芸術のほとんどが形の完成を追求せずに、その底に流れる霊的なものを追求してゆく。

それはまた、いかにも自然的に国土や季節や人間の生命性と通い、現象的なるものと自然・宇宙との内的綜合の方向にすすめられるであろう。

そこには永生に対する無条件的な信頼と、また永遠の「今」とみなす現在にふかい共感と移入を示し、それは自己が自然・宇宙と合致するときにはじめてえられる芸術の永遠性となる。

戦後、日本芸術に対する世界の関心はようやく高まり、そのデリケートで深い情感にみちた個性が、文明の崩壊現象による不安の中に生きる人々にあらためて日本芸術のもつ生命的美を訴えているのをみる。

日本芸術の特質は、西洋の芸術が意志と欲望の芸術であり、自然の征服、物質の優越、空間の拡大、本能の流動等に向うのに対し、むしろ自然との融合、物質と精神の分ちがたい一体性、時空の自己実現としての永遠なるものへの帰一、人間本能と宇宙的エネルギーの調和をめざす生命と感情の芸術であり、あらゆる意味における「愛」の芸術であることにある。

この芸術は、西洋芸術がかつてなしえなかったところのもの、すなわち天上的な美を地上の美のうちに、あるいはまたその反対に、これらの一体化によって永遠の美を創造する最高の様式をもつものである。

写真 紅葉
 

日本文学の伝統

最近、海外における日本文学ブームといった風潮がみられ、アメリカ、ヨーロッパだけでなく、東欧、ソ連においても相次ぐ翻訳化が計画されていると伝えられる。

そして、これらのブームをもたらした原因は、現代文明がついに水爆の恐怖を生み出し、文明の自殺の途を準備したいま、その限りない不安と焦燥に対し、失われた人間的感情の世界――人間がそこから生れ、生長し、それによって人間となりうるところの人間感情のゆたかな海をふたたび見出し、そこに人間性の再発見をなそうとする切実な要求に発するものと思われる。

その対象としての日本現代文学は、日本文学の本質からは程遠いものであるとはいえ、これを通じてさらに真の日本文学の特質が理解されうるにいたることも否定しえないのである。
日本文学は、これまで世界の主流から孤絶した特殊的な内容・形式をもつ、きわめて理解しがたいものとされていた。

しかし日本文学は、表面的には特殊かもしれないが、その内容においては非常に普遍的なものをもっている。

そこには世界性を付与された日本の歴史そのものと、純粋な象徴の光りが一すじにつらぬいており、しかもそれは象徴のゆえにこれをたどることは、よほどの態度と理解を必要とする。
かくて日本文学の伝統は、むしろ今後のグローバルな地球社会において最も問題となるべき諸要素を提供するであろう。

すでに源氏物語の紫式部や西鶴、漱石などユネスコの世界的文学者として選出されたことは、ますます今後の日本文学の古典や伝統を、普遍的に観賞せしめることとなるであろうことは明らかである。
 

日本文化の科学創造

日本の科学は西洋科学の存在規定の法則に対し、生成流転の相を見ようとするものである。

一つの自然の形態をみる場合、これを固定せるものとしてとらえず、変化しゆくものとしてとらえるとき、そこには単なる法則化・固定化はありえず、かくて物質の探求は法則発見にではなく、むしろ生成し変化しゆくものを形態において把捉せんとする方向に向う。

こうして西洋と日本の場合では、同じ真理に対する追究の仕方が根本的にちがい、しかも新しい創造的科学は、この日本の方法に光を見出す。

日本の理論物理学が世界にすぐれて高度な水準を示し、20世紀科学の発展に大きな貢献をもたらしてきたことは周知の事実である。 それは日本の恵まれざる条件の中からやむなくこの領域での研究に集中されたからともいわれるが、それだけで日本理論物理学の優秀性を説明することにはならない。

むしろ、その真の理由として、日本人の深い伝統文化に根ざす洗練された宇宙・自然に対する純粋な直観力の蓄積があげられるのであり、それなくしては、いかなる天才的頭脳といえども、よくその能力を発揮しえないであろう。

しかも最近の傾向は、この伝統文化の深い生命性を科学研究から切りはなすことによって、深刻なゆきづまりの状態に陥っていることを否定しえないのである。

そして、20世紀の科学が物理学を主流とするならば、21世紀の科学は、おそらく生命学であることは十分に予測され、それには生命の内的直観によってのみ、その本質がとらえられる点で、日本人の科学的創造が真に開花する時であろう。

写真 茶釜
 

日本文化と教育の実践

いまや旧い秩序や価値体系の多くが崩壊し、あらゆる存在、あらゆる部門において新しい人間の出生が待望されている。

そして教育には、この時代に特徴的な歴史の波調が生産する更新された生命――すなわちこの歴史変革を主体的に実践する新しい知識と知性をもった人間を生長させるというきわめて重要な任務を負わされているのである。

人間の問題、その運命とその未来とが一般的な意識の課題となりつつあるとき、日本文化における教育の根源的本質が改めて省みられねばならない。

しかるに現代日本における教育の実状は、その基本思想としては18世紀、西欧の啓蒙主義なるカビの生えたアナクロニズム、それに全く非歴史的なアメリカのコア・カリキュラム方式による社会科的教育を横糸とし、マルクス主義的社会科学、とりわけ唯物史観を縦糸とすることによって、米ソの相対立する世界観をそのまま日本の教育の中に移し入れ、これによって日本の民族、国家の基盤を完膚なきまでに否定し、典型的な植民地的隷属人の育成に全力をあげているかに思われるのである。

この恐るべき迷蒙が教育として実践される所にこそ、現代日本の最大の悲劇が存するといえよう。

誤まれる進歩的教育の亡霊――その実体を明らけき光によって照破し、真の普遍的なる日本人育成のための全人教育がここに確立されねばならないのである。

さらに日本の教育はますます教育課程を長くして、高校も義務教育となり、全人口の8割が大学教育をうけるのも眼前にある。

かかる知的水準の高さは世界最高であり、これこそが来るべき知的世界の指導者としての日本人の条件を完備することとなる。

写真 赤茶碗
 

日本文化の生命的持続

文明が一つの完成に到達するとき、文明のもたらす環境は人間を死滅の方向にみちびく――人間の遺伝形質と環境との矛盾の最後的破局にまでいたらせるのである。

これはトインビーの歴史観に示されている――断崖に挑戦する人類――自然への挑戦力の減退による衰亡――断崖より転落する文明……にみるように、いまや西欧的文明の生命そのものの危機が予見されるとき、日本文化における永遠の生命の本質的発展こそは、その神話の啓示以来、よどみなく流れ来たった生成の深層に根ざすものといえるであろう。

日本の神話――そこには最初から生命としての象徴的な発現があり、それはまさしくルネサンスの光である。

このように、日本の神話そのものが、それ以前の時代のルネサンスとして描かれ、死の断絶をこえてゆく不断の生成発展の相の下にとらえられるのである。

かくて日本文化は、もっともドラマチックな生き生きとした象徴の生命を伝え、そこに地球の生命的波動とふかく大きく照応するのである。

歴史は断片的文献をたよりに、しばしば永遠の生命としての民族的神話を破壊する。エジプトが亡び、ギリシア、ローマの亡びたのも、その生命の源泉である神話の否定に最大の原因があった。

歴史は神話となって永遠となり、神話のあるところ永遠の生成が実現される。

日本こそ、かかる永遠の生命を象徴する神話の国であり、神々の国である。
ここにこそ、人類の永遠なる不死の象徴が富士として太陽に輝いているのである。
 

新しい日本政治の方向

平和文化国家としての新しい日本の方向は、いかなる政治的実践を必要とするか――西欧とアジアの架橋たろうとする日本の決意は、ともすれば世界矛盾の激突の中にまきこまれんとする。

アジアに、統一と建設の大道を示し、その尨大なエネルギーを結集して米ソに対する充分な発言権をもつ確固たる存在たらしめるのみならず、かえって逆に滅亡の深淵の前に立つ米・ソ・西欧へのアジア精神の導入をなすべき橋を架けることを考えねばならない。

しかもこの日本の政治的方向は、日本の歴史的伝統として不断に汲み伝えられているところである。

水爆戦争が将来起りうるか否かに、今日の世界政治の問われるべき根本問題があるのではない。

むしろ水爆をもって政治権力の不可欠な力とした近代政治そのものに真の問題が存するのである。

いわゆる進歩的政治形態の模範とされるイギリスの議会政治、アメリカのデモクラシー、ソ連の社会主義等々の諸形態も、すでにその本質において水爆帝国主義へと転化しており、ここに近代政治の致命的な矛盾をみるのである。

この政治形態そのものの深い反省の中から、あらためて世界政治との対比において、日本の政治的展開が見直されねばならない。

そのときひとは、はじめて日本の政治の本質とは何であったかを最も新しい角度から理解することができるであろう。
 

新しい日本経済の構想

文化と経済――この一見きわめてかけはなれてみえる二つの領域が、実は最も密接不可分の関連のうちにあることはいうまでもない。

しかし、それはマルクスが云ったように、単に経済的基盤によってことごとく左右されるのではなく、かえって上部構造としての文化が、その土台を発展せしめる最大の要因となる逆転をみることができる。

とくに今後の原子力世紀における文化と経済の問題は、経済が広義の文化の一環として定位されることを必然化しており、この観点から新しい経済原理と日本の方向とが理解されるべきである。

近代ヨーロッパがその資本主義経済を確立し、世界経済の支配的中心力にまで発展しえた真の要因は、実にその植民地侵略を基盤とするものであった。

そのあくなき自利追求の欲望経済は、しかしそれ自らの内部矛盾を激化して、共産主義なるゲスペンスターを生むとともに、東方日本のアジア解放の反撃に直面しなければならなかった。

いまや西欧はアジア・アフリカの解放独立とともに、その経済的基盤を喪失し、ここに、「欧洲共同市場」なる経済的統合の方向に向わざるをえなくなった。

しかも、それはなお縮小化した自己保身のためのものであり、より積極的な意義に欠けるものといえよう。

これに対し日本は、真の福祉繁栄経済の生命的原理をもって大いなるアジア・アフリカの復興を実現し、幸福なる世界文明の経済的基盤を確立すべく思念するものである。

自由の経済は資本主義を生み、平等の経済は社会主義を出現したが、いまこそ友愛の経済学として南北相互協力のグローバリズムを実現すべき地球的必然に迫られている。

そこには搾取や破壊に代わるに、真の愛の生産があり、創造がなされる地球的繁栄の時代があらわれる。
 
▲このページのトップへ