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第3章 欧米化してしまった日本社会
 

戦後から復活した日本、しかし・・・

日本は、第二次世界大戦以降、奇蹟的な復活を遂げました。そして、国民の9割近くが、特別な金持ちもいないが特別な貧乏人もいないという、一億総中流社会を築きあげました。
私は、終戦の年に生まれました。当時のことで子供心に記憶に残っているのは、沢山のホームレスの姿です。家のない貧しい人達は、それなりに目立っていました。ところが、高度成長を遂げると、そういう人々は本当に減り、見ることがなくなりました。

しかし、最近はどうでしょう。仕事柄、新幹線をよく使うのですが、駅の周辺には、ホームレスの人達が徐々に増えてきています。また駅に関わらず、公園などいろろな所でも増えています。
その中には、人生に疲れてそうなった方もいらっしゃると思います。しかし、大半は食べられないために、ホームレスになっているのではないかと思います。
これだけ豊かになりながらも、この現状は一体何なのか、ということです。
極端に言えば、あらゆる面で日本が欧米化してしまった為なのです。


これは、日本だけに限らず、地球レベルで同じ現象が起こりつつあります。
縄文時代から培われ、伝統的に引き継がれてきた日本的なものを捨ててしまった。というより、欧米型唯物論の侵略にまんまとやられせん。
その結果、後述する『現代社会の12の不安』を代表するさまざまな不安が蔓延していますが、今の日本人は平和ボケしていて、そのことすら気づかない人種に成り下がっているように、思えてなりません。

では、欧米と日本の違いを図@〜Cで見ていただきましょう。
この4つの比較を見ていただくと、欧米と日本ではさまざまな相違点があります。今、日本社会はあらゆる分野で欧米化しています。 

日本と欧米の文化の違い

日本人と欧米人の理論背景の違い

日本と欧米の企業文化の違い

日本企業と欧米企業の違い

次に、参考図と多少表現の違うところもありますが、一般的な相違点の一部を自然観・経済観などの、9つの視点から述べてみたいと思います。
 


欧米の考え方は、自然征服です。
これは、古事記の天地創造と、聖書の天地創造との比較の中で、その違いがはっきりわかります。
古事記では自然が先に生まれ、その後から人間の誕生になっています。
しかし聖書では逆で、人間が誕生してその後から自然です。
要するに、人間の方が自然より上という考え方なので、自然をどのようにコントロールしても良いという事になり、自然征服が環境破壊という問題になるのです。

また、外国に行くと解りますが、本当に緑が少ないため、どうしても自然を開拓・征服せざるを得ないのです。

ところが、日本は照葉樹林が多く、自然に非常に恵まれています。
日本の国土とアメリカの国土を比較しますと、日本の26倍です。
日本の人口は1億2千万人ですが、アメリカは約2倍の2億5千万人ぐらいです。
アメリカ大陸の26分の1という国土の広さからすれば、日本人は山も野原も木を切らなければ、住めないかも知れません。
それでもまだ、日本は森林が多く自然は豊富です。
自然と共生という考え方は、まだ日本の中にあります。
このような違いが本来あるのですが、日本も市場経済主義によって、急激に自然破壊が起こっています。
 


現在は、欧米型資本主義がアメリカを中心に世界を動かしています。その実態は、市場経済主義の弱肉強食の大競争時代であり、その中心は『金』です。
経済学の理想とするところは『経世済民』です。つまり、『社会(市民)を良くするための経済(金儲け)』です。しかしながら、現実は『経済(金儲け)をするために社会(市民)が犠牲』にされているのです。
更に『労働による富』ではなく、『金が金を生む』博打経済に近いものも増えつつあります。 人間は動物のように『食欲と性欲(種族保存)』のみで生きているのではなく、いろいろな欲望を抱いているがゆえに、次から次へとエスカレートしてしまいます。

しかも欧米型資本主義は、唯物論哲学・科学を基盤としているがゆえに、どうしても『精神的価値よりも物質的価値』を重要視します。
その飽くなき物質所有欲の象徴が『拝金主義』となり、金儲けの為には手段を選ばない経済の暴走が、ほんの一部の勝者と大多数の負者の二極化現象を起こし、ますます貧富の差が広がりつつあります。
確かに、人間は欲望があればこそ努力もするし、その見返りとして富を得ることは決して間違いではないのですが、ほんのひと握りの勝者が富のほとんどを持っていくと、富は負者に循環しなくなります。
そうなりますと、国民の意欲も低下し、日本の企業の99・76%を占める中小零細企業は、成り立たなくなる危険性をはらんでしまい、事実そうなっています。
ごく最近までの日本は、一億総中流社会という経済的に安定した富の循環がありましたが、今では遠い昔話になりつつあります。欧米化の中でも、特に経済観は顕著な事例といえます。 
 


欧米はどちらかというと、私益中心です。
経営を維持する為に適正利潤は当然必要ではありますが、そうではなく「会社が儲かればよい」とか、「株主が最優先されている」傾向にあります。
一昔前までは、日本の企業は公益中心でした。
社会にいかに貢献していくかということを大切にしてきました。

私は、昭和40年に寿屋というスーパーに就職しました。人口2万5千人という小さな町から生まれ、九州の地場産業としては最大のスーパー迄に成長しましたが、時代の流れに逆らえず、数年前に倒産しました。
 
そこで教えられたことは、
  『お客様第一主義』
  『お客様満足一〇〇%の追求』
  『奉仕に明けて奉仕に暮れる

社会の公器としての経営でした。

また、利益の分配に対する捉え方も3分の1は企業(従業員)に、3分の1は社会(消費者)に、3分の1は株主に、というような考え方を習ったものでしたが、今は違います。
日本型経営は時代遅れだとか、情にもろいとか、いろいろなご批判を耳にしますが、私は違うと思います。

少なくとも明治を作った経営者たちは、日本的精神を基本にし、欧米型の良さを組み込み、日本独自の経営システムを築き上げたと思います。
日本人の経営観には「損して得取る」ということがあります。弓矢の矢を引っ張るときに、ぐーっと引っ張りながら、ぎりぎりまで矢を放たない。
自分の為にも、お客様の為にも、ぎりぎりまで考え抜くという「空間」「間柄」を大切にしていました。
しかし、欧米は株主最優先で、社会や消費者への還元は後回しです。事実、日本の経営観もそのようになりつつあります。
 


社会観は人間観とつながっているのですが、欧米の場合は「損得中心(テイク&テイク)」です。つまり自分の利益中心です。
もちろん、それも確かに必要なのですが、私たちは、社会というコミュニティー(団体)によって育てられ、そこに住んでいるわけですから、自分の損得も大切ですが、社会の善悪をまず考えなければなりません。
伝統的な日本人は、『善悪』という座標軸をしっかり持って『損得』を考えていました。どちらかというと『善悪中心』の『ギブ&テイク』の社会観でした。

日本中で今、一番元気のいいと言われる町に行った時のことです。
タクシーの運転手が、話 してくれました。 
「この町の人間は、奢ってもらえるとなると、たくさんの人が集まります。ところが、自分がお金を出すとなったら、全く来ないのです」出すことはしないで、貰う事ばかり考える事は「損か得か」です。  
一昔前は、子供が悪い事をしていたら、他人の子供でも「コラ!」と注意をしていました。
今は、注意したらトラブルになったり、場合によっては傷害事件になる場合もあり、したくてもなかなか出来ないわけです。
そんな社会になったということは、個人中心の、自分さえ良ければよいという社会を作った末路ではないでしょうか。

子供も遊ぶ場所もなく、人と人とのふれあいの中から育っていくという環境は、激減しています。大人も「隣は誰住む人ぞ」というようになっています。
他人から干渉されないことは楽なようですが、隣近所との付き合いの薄い社会になり、結果、多くの人が孤独感にさいなまれています。
それは、職場環境においても同じことが言えます。出世競争や成果主義により、職場の中に話相手や仲間がおらず、精神的に病んでいる人が増えつつあります。これも欧米化の影響といえます。
 


欧米は「成果主義・能力主義」です。
労働市場で、優秀な人間がどんどん飛び交う事によって、素晴らしい発展をとげていく流動性、これは必要なことです。


しかし、かつてプロ野球の世界で、優勝するためにリストラをし、4番バッターばかり揃えた球団がありましたが、優勝できませんでした。
同じように能力ある人達だけを集めても、職場は成り立たないのです。社員がお互いの能力・立場は違っても、職場という場を生かすチームワークが大切なのです。
能力というのは、結果的には企業のことよりも、自分確保ではないでしょうか

日本人の職業観は、欧米のように賃金を得る手段ではなく、仕事を通じて人間
完成する、つまり神となる、という神聖なものでした。 昔の日本は、利益が上がらなければ、何とか我慢しながらでも、落ちこぼれのない職場確保をしていました。
若い頃は無理もききますが、誰だって年をとりますから、企業を支えてきた先輩を、次の世代の人達が支えていました。
そして、年寄りは退職という形で、若い者達にチャンスを与えていったのです。
それが、本来の年功序列や終身雇用の意味だと思いますし、そういう仕組みができなければ、長期的には人材は育ちませんし、結果、会社も成り立たなくなります。


以前、ゲームの海賊版が香港やいろいろな所に出まわった事件がありました。 自社製品が安い海賊版として、どこからともなく出てくるわけですが、その出先をよく調べたら、自分の会社の社員がヒット商品のデータを盗み、休日に海外に出かけて、小遣い稼ぎに売りさばいていたのでした。

あまりにも最近の経営は、会社の利益が中心で、社員を粗末に扱っているように見えます。
その結果、社員も職場を守るよりも自分を守らざるを得なくなっているのです。最近、頻繁になされている「内部告発」も、職業観の変化の現れではないでしょうか。
職業観も金銭的・物質的・手段的で、条件が良ければ簡単に転職する、平気で辞めるという欧米化の現象が急速に進んでいます。
 


欧米は個人主義の社会ですから、どうしても自己中心になります。
自己中心が悪いのではありませんが、私達は社会の中で生きなければなりません。社会によって生かされている存在です。ですから「自分も他人もどうしたら上手くいくか」ということを考える必要があるのです。
インドの挨拶言葉で「ナマステ(こんにちは)」は「貴方は尊い人です」という尊敬語です。日本人も、そういうものを大事にしてきた民族だと思いますが、今は逆になっています。

人間のお付き合いも取引的で、損得中心になっています。もちろん損得を考えなければならない時は、沢山あります。
かつて山一證券が倒産寸前になっていた時、当時の田中角栄大蔵大臣の「世界中に迷惑をかけてはいけない。山一を救え」という、鶴の一声で救われたという逸話がありましたが、それは「日本の信用を守らなければいけない」ということからでした。今は社会のためになることでも、自分が損になることは、頬かむりして知らぬ顔の人が多くなっています。
全てが自己中心になっているのではないでしょうか。

当然、個人としての存在は尊いものでありますが、お互いが個人の価値観をぶつけ合ったら争いになります。
そういう争いは、弱者を完全に打ちのめすという危険性をはらんでしまいます。
しかも、いつもいつも自分だけが勝つとは限りません。

80年という人生マラソン の旅路においては、負ける時もあれば、人の助けを必要とする時もあります。
だからこそ、自分も他人も生かし合うためには、お互いがお互いの立場を尊重することが大切ではないでしょうか。
「負けるが勝ち」「損して得とれ」は、日本人の人間観の象徴的な世渡りの秘訣でもあるのです。
しかしながら、今の日本は個人主義の社会に大きく変貌しつつあります。
 


欧米の夫婦観は「あなたがこれだけ稼いで帰ったら、これだけご馳走するわよ」というような取引・契約的な傾向が見受けられます。
欧米の契約社会では、ディベート(議論)で勝つ方が重要視されています。

しかし、議論に勝って離婚したところで何の得にもなりません。
夫婦間というものは、割っても割り切れないものです。
お互いがお互いを「うちの女房はなっていない」「うちの旦那はなっていない」と言いながら、30年40年過ぎていくのが夫婦です。
お互いが、言いたいことや損得や善悪を上手にコントロールしなければ、皆離婚になります。


日本文化は、家族制を非常に大事にしてきました。そこには、欠点もありますが、夫婦別姓制などにしてしまうと、子供はどちらの姓を継ぐのかという事を明確にしておかなければ、日本は解体されてしまいます。
終戦後、アメリカのGHQが行った政策の一つに、日本の家族制の崩壊の仕組みがあります。(34頁参照)
今やその通りになりつつあるのです。

お互い、生まれも育ちも違う者同士が縁あって夫婦になるのですから、そこに価値観の相違があるのは当然です。
その隙間を永い時間をかけ、お互いを反面教師として埋め合わせていくところに、夫婦としてにじみ出るような深い味わいが生まれてくるのです。
つまり、夫婦という営みの中で、お互いが人間的成長をしていくことになるのです。

年老いた夫婦の仲睦まじい光景ほど、ほほ笑ましいものはありません。
最近は、定年退職離婚、晩年離婚が増えていますが、いつの間にか夫婦がバラバラになっているのではないでしょうか。
このような環境が、夫の暴力、妻のキッチンドリンカー等を生んでいる原因のひとつにもなっているのです。  
 


人間はもともと「知性」と「霊性」と「情性」と、動物本能的な「邪性」を与えられてこの世に生まれてきました。
知性は『論理』を生み、合理的・闘争的で男性的です。
霊性は『感謝』を生み、非合理的・融和的で間性的です。
情性は『情愛』を生み、不合理的・調和的で女性的です。
邪性は『破壊』を生み、無秩序的・暴力的で獣的です

知性は、欧米文明の唯物論的哲学・科学を発展させ、霊性は、日本文明の融和的哲学・科学を発展させ、情性は東洋文明の包容的哲学・科学を発展させてきました。 
日本文明は、情性を分母に知性を分子に、霊性と三位一体としてきた文明です。
邪性は、人類共通の本能的な深層意識でもあり、文明を超えています。

日本・東洋・欧米の文明観の違いは、非常に重要であります。
文明の影響力は、国家・社会・個人(人間)の生き方を自ずと決めていくことになるからです。

イタリアで興った文芸復興運動(ルネッサンス)をきっかけとして、産業革命が起こり、近代社会が誕生していったのです。
しかし、それは唯物論哲学・科学に基づくものであり、すべての価値基準を「物」に置いてしまいました。
それは、宇宙本位(コスミカリズム(54頁参照))に基づいたものではなく、人間の知性・理性という経験知・観測知の枠内から、また、見える側面のみの価値基準であります。そこに、自ずと限界がでてくるのです。
日本文明は、コスミカリズムそのものであり、見える物と見えない心、つまり『惣』という視点からの価値基準を縄文時代より培ってきたのです。
しかし、知性が優先し過ぎると、その反動で潜在化している邪性が浮上してくるのです。
今の日本は霊性・情性よりも知性が重要視されて欧米化することによって、本能的な邪性が表面化しているのです。 
 


欧米化の欠点・悪口ばかり言っているように思われるかもしれませんが、そうではありません。どちらの座標軸を中心にものごとを捉えるかという事です。
座標軸によって、全然違う結果になるわけです。

欧米は、「全体(場)と個」というものを切り離しているのです。
しかし、日本では、自然の中に人間がいるというように、全体の中に個があるのです。中国や日本の水墨画をみると、自然の中に人間が描いてあるように、日本・東洋は自然と調和しているのですが、欧米の人物画を見ても、大体人間が中心で、周りはあまり重視されていないように思われます。
日本は一見矛盾しているようなものでも、全体から見れば一つという融和論ですが、今は、すべての物事を分けてしまう欧米型二元論の社会になっています。

文明観の中でも述べましたが、欧米文明は見える物中心の唯物論哲学・科学のの価値基準であり、すべての物を細分化して判断してしまいがちです。
しかし、この宇宙は、それぞれが別々のようであっても、相補の関係でつながって成り立っているのです。
例えば、人間の身体においても、固体としての骨格、液体としての血液、生気としての生体エネルギーと一見別々のように見えますが、どれひとつとっても単体では身体(生命)はできていないのです。全体のつながりの中で身体(生命)ができているのです。
しかし、欧米文明にはこうした価値基準がないため、どうしても右か左か、上か下かというように二元論的・相対的になってしまうのです。
欧米人は、生まれた時から二元論で育っていますから当たり前なのですが、日本人は縄文時代からムスヒ(融和)の精神(94頁参照)を育み自分の置かれている環境(場)の中で、異なった者や異なった意見でも、何とか融和させる生き方を大切にしてきました。しかし、今の日本は欧米化しています。
 
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